ヴィウの囁きと美しき挑戦。
シーズン1 始まりのささやき
エピソード1〈止まらない時の中で〉

朝の光が、東京のビル群を静かに照らしはじめていた。
ガラス越しに見える街は、まだ眠りの残り香をまといながらも、
どこか急ぎ足で一日を迎えようとしている。
奈緒美の住むマンションは、その街並みを見下ろす高さにあった。
部屋の中は、余計な装飾を避け、白と木目を基調に整えられている。
生活感を抑えたその空気は、彼女の気質を映しているようでもあった。
(起きなきゃ…)
けれど、今朝の彼女はベッドの上で動けずにいた。
目は覚めているのに、身体が重い。
天井を仰ぎ、しばらくそのまま時間をやり過ごす。
窓から射し込んだ冬の光がデスクのスマホに反射し、
白い天井に揺らめく光の筋を描いていた。
その波を追っていると、再び眠りに落ちそうになる。

天井が、じわじわと近づいてくる。
(あら? 天井が落ちてきてる…)
夢か現実かわからない境目で、
昨夜スマホに届いた不思議なメッセージがよみがえった。
──ヴィウの囁きに耳を傾けて。
キレイはあなたの中にある。
広告かもしれない。けれど、妙に心に残っていた。
その言葉を反芻しかけて──はっと目を見開いた。
(それどころじゃない!)
昨日のトラブル。ライバル会社に先を越された企画。
頭は冴えているのに、身体は鉛のように動かない。
それでも、起きなければならなかった。
(いかなきゃ……)
無理やり体を起こし、鏡の前に立つ。
そこに映った顔に、思わず息を呑む。
目の下には濃いクマ。頬は乾いて粉を吹く寸前で、肌の艶は完全に失われていた。
かつて自信を持っていた肌が、今は無惨なほど荒れている。
仕事に追われ、ケアをする余裕などなかった。

(疲れてる…ひどい顔…)
胸の奥で、何かが崩れていくような感覚。
それでも冷たい水を両手にすくい、頬に押し当てた。
ほんの少しだけ意識が戻る。
*
コーヒーの香りが漂う。
夫の健一が、マグに注ぎながらこちらを見た。
「おはよ。
昨日も遅かったみたいね。
大丈夫? 無理しすぎないでよ」
「ありがとう、大丈夫」
そう答えた声は、どこか自分を守る殻のように硬かった。
健一は大学時代に山岳部にいた、いわばアウトドア派の男だ。
誠実で落ち着いているが、その距離感が時に奈緒美には遠く思える。

奈緒美が焼けたパンを皿に盛っていると、リビングに子どもたちが顔を出す。
中学三年の愛莉はスマホを操作しながら冷めた声を投げた。
「ママ、今日も仕事?」
「そうよ」
わざと肩をすくめた仕草に、少し大人びた影が差していた。
その瞳の奥に、一瞬だけ母を気遣う光が見えたが、奈緒美には届かなかった。
健太郎はパンを頬張りながら声を上げた。
「今日、サッカーの練習あるんだ!
見に来られる?」
「ごめん、今日は無理かも…」
「そっか」
小さな声。でもすぐに、
「行ってきまーす!」
と大きな声をあげながら、健太郎は靴をつっかけて玄関に走り、ドアを閉めた。

奈緒美は、その背中に「ごめん」と言えないまま立ち尽くした。
家族に囲まれているのに、孤独を感じる瞬間。
深く息を吐き、バッグを手に取った。
*
電車に揺られながら、奈緒美はただそう思った。
車窓に映り込む流れる景色が、まるで自分の人生そのもののように感じた。
すべてが速く流れ去り、何も掴めない。
自分はどこに向かっているのか──はっきり見えなくなっていた。

朝日を受けてガラス張りのビルが次々と後ろへ流れていく。
窓に映った自分の顔は疲労で硬くこわばり、知らない誰かのように見えた。
その顔が一瞬だけ景色と重なって揺らぎ、現実感を失う。
止まらないのは時間だけではなく、自分自身もまた景色の一部に飲み込まれているような感覚だった。
*
オフィスに着くと、チームメンバーが次々と挨拶を交わす。
皆の顔はいつも通りだ。
(どうして?
あんな大きなトラブルがあったのに)
まるで皆が「奈緒美なら大丈夫」と安心しきっているように思えた。
同じフロアのスタッフたちは画面を見つめ、沈黙の期待を投げかけてくる。
「チーフならなんとかしてくれる」──言葉にしなくても空気がそう告げていた。

机上の端末に通知が光る。
部長からのメッセージだった。
──「次の企画を立て直せ。
大丈夫。君ならできる」
実績への信頼と、お気楽さが入り混じった文字列。
奈緒美はすぐに返信を打った。
──「進めています。
ご安心ください」
(…って、大丈夫じゃないって…)
その言葉が胸に沈んだまま消えなかった。
*
「チーフ、おはようございます!」
分厚い資料を抱えた祐輔が、少し駆け足でやってきた。

「昨日、プロジェクトのデータ整理をしてたんですが、サーバーのログにちょっと不自然な動きがあったんです。
エラーなのか、誰かが触ったのか、まだわかんないんですが……」
奈緒美は顔を上げた。
「問題あり?」
「いまのところは大丈夫です。
でも、気になったので」
「そう。
じゃあ様子を見て」
「了解です」
祐輔は小さくうなずき、企画のファイルをデスクに置いた。
「企画、立て直しですよね」
「ええ。
こうなったら仕方ないわ」
「なんか、僕にできることあったら言ってくださいね!」
気持ちを切り替えるような声には、まっすぐな熱がこもっていた。
奈緒美は思わず小さく笑い、うなずいた。
資料を見つめ、深く息を吸う。
何かを吹っ切るように深く目を瞑り……、
やがて開いた目には光があった。
「やるっきゃないよ」
そう呟き、パソコンを開いた。


