肌の精霊と対話する。

シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~

エピソード2〈精霊からの囁き〉

[Illustration 1: 施術室の空気の密度が変わり、“誰か”の気配がある]

籠の中の果実が、ふわりと光を返した。
それは、ほんのかすかな揺らぎ。
けれど確かに、そこに“誰か”の気配があった。

高埜木魂(たかの・こだま)は、息を止めるようにして立ち尽くす。
空気の密度が変わった。
香りでも湿度でもない、“場”の質そのものが、音もなく動き出している。

[Illustration 2: カゴ盛りのびわに光の筋通る]

──ふふふ。
やっと会えたわね。

音ではない。けれど、確かに“声”だった。
花が咲くように柔らかく、風の粒子が混じるように甘い響き。

──あなたたち、人の肌を“整える”というけれど……
肌は、そんなに単純ではないのよ。

心の揺らぎも、空気の重さも、命のさざめきも、
すべて、肌は聴いている。
外でも内でもない、その“ひとえ”の薄膜で。

[Illustration 3: イメージ 様々な色合いの淡い光を包み込む“ひとえ”の薄膜]

止水の赤がかすかに震え、
その振動が空気に伝わった。

──でもね、あなたたちは、押し込みすぎるの。
「浸透」という言葉を、まるで正義のように使うでしょう?
けれど、肌は拒んでいるの。
赤くなったり、荒れたりして。
それが“ノー”のサイン。

高埜木魂の胸の奥で、わずかに痛みが走る。
彼は何人もの肌を見てきた。
癒しと呼ばれたものの中に、どれほどの「無理」が潜んでいたかを知っている。

──肌の上には、小さな命たちがいる。
あなたたちが“常在菌”と呼ぶ、翻訳者たち。
彼らは、外から来たものを肌が理解できるように、そっと言葉を変えて届けてくれている。
どれだけ美しい言葉でも、通じなければ傷つく。
肌も同じ。

[Illustration 4: 肌の上の常在菌のイメージ-擬人化した可愛らしい生き物たちが光の玉をお互いにやりとりしている]

彼はゆっくりと目を閉じた。
思考ではなく、感覚で理解している。
音を立てずに呼吸を合わせる。
呼吸は、翻訳だ。
生命と生命が同じ“調子”を取り戻す瞬間。

──けれど、その子たちがいなくなったら……
どんな成分も、ただの異物になる。
肌は言葉を失い、沈黙して、剥がれていく。
“触れる”という行為が、どれほどの情報をやり取りしていたか、
あなたたちは忘れてしまったのよ。

ふと、精霊の声に温かみが増した。
まるで母が子を叱りながら、同時に撫でているように。

──肌の下には、もうひとつの記憶があるわ。
皮筋。
そこは、微かな呼吸と同じリズムで動いている。
その揺らぎを感じ取れる人は、わずかしかいない。
あなたは、その一人。

[Illustration 5:目を閉じて、精霊の存在を全身で感じている高埜木魂。異世界状態、瞳は赤く光り、胸元の止水にペンダントボトルも赤く光り出す]

……ふふふ。
あなたなら、できると思ってるけど?

止水の瓶が光を返し、精霊の声が優しく揺れた。

──ほんとうのケアって、
“与える”ことじゃなく、“共鳴する”こと。

肌の上で起きているのは、ほんの小さな会話。
けれど、それは森で風が葉を撫でるのと同じ。
命と命が、互いの呼吸を思い出しているだけなの。

だからね、肌を癒やすってことは、
あなた自身の“生き方”を整えることと、同じなのよ。

その延長線上に、森の命も、人の命もある。
木々の葉も、あなたの肌も、同じ仕組みで呼吸している。

ビワの葉が火にくべられる時、
その中の微生物たちは、熱に溶けながら光へ還る。
それは滅びではなく、循環。
命の情報が香りに姿を変えて、空へ昇るだけ。

[Illustration 6: ビワの木と葉が炎に包まれる。淡い光が空へ登り、循環する]

炎は、奪うものではない。
命を次の命へと渡すための通り道。
その中に溶けていくものたちは、悲しみではなく、約束を果たしている。

高埜木魂は、ふと遠い記憶を思い出していた。
たしか、祖母が夜に語ってくれた話だ。
焚き火の中へ身を投じた白いうさぎ。
飢えた旅人に食べ物を与えられなかったうさぎが、
「それなら私を食べてください」と言って炎に飛び込む話。

そのときの衝撃を、彼は今も覚えていた。
なぜ誰にも責められていないのに、火の中へ入ったのか。
子どもの彼には、ただ怖くて、意味がわからなかった。

[Illustration 7: 旅人の前で、焚き火に飛び込むウサギ]

けれど今なら、少しだけわかる。
あれは死ではなく、調和への帰還だったのだと。
命が命に譲り渡し、ひとつの呼吸の中で続いていく。

人も、菌も、植物も。
その優しい循環の中に、等しく包まれている。

──触れるだけで癒やすというのは、
その“循環”に立ち会うことなの。
菌と菌、命と命が呼吸を合わせる瞬間のこと。

高埜木魂は、無意識のうちに手を伸ばしていた。
籠の中の果実に触れる。
温かい。
それは単なる熱ではなく、
何億もの命が一瞬で声を合わせたときの“熱”だった。

──あなたが見て、触れてきた肌。
それはとても尊いことだった。
でも、それだけでは届かない場所がある。

だから、

私は……あなたを呼んだの。

[Illustration 8: 果実に触れる/命の共鳴]

声が静まり、香りがふっと変わる。

白檀よりも深い、蜜のような残香。
その中に、彼は確かに“存在”を感じた。

精霊の言葉が消えたあとも、
止水の表面では、赤い光がゆるやかに呼吸していた。

(ビワ……おまえは、仏の薬樹か)
高埜木魂は心の中で呟いた。
“触れるだけで癒やす”――それは、施術でも薬でもない。
生命同士が同調した瞬間に生まれる、
見えない慈悲のような現象。

──これは、始まりや。

その言葉を呟くと同時に、
籠の中の果実が一粒、光をまとって宙に浮いた。
彼は、その光を見つめながら、
静かに頷いた。

[Illustration 9: 宙に浮く光るビワの実を見上げる高埜木魂]

「つまり……おまえの力を借りれば、
人と自然の断絶を、もう一度つなげられる、いうことやな」

──ふふふ、
あなたにその力を授けてあげてもいいけど、一つ条件があるわ。

止水の瓶が胸元でひとつ音を立て、
甘い香りが、ゆっくりと空間に溶けていった。