肌の精霊と対話する。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード3〈満月の約束〉
──ふふふ。
あなたにその力を授けてあげてもいいけど、一つ条件があるわ。
甘やかな声が、空間にそっと満ちる。
高埜木魂は、静かに息を潜めたまま、耳を澄ました。
その瞬間──
籠の中のビワが、ひと粒だけふわりと浮かび上がる。
つややかな果皮の表面がゆらぎ、光の繊維が解けていく。
柔らかな炎のように広がるそれは、ひとつのかたちに姿を変え始めた。

丸く、大きな瞳。
波打つ光の髪のような揺らぎ。
人のようでいて、人ではない。
けれど、たしかにそこに「誰か」がいた。
──ふぅ、ようやく形になれたわ。
目も見えるし。
あら、あなた、いい男ね。
くすくすと笑いながら、精霊は宙をただよう。
その存在は、神秘的で、どこか少し挑発的でもあった。
「……条件、いうたな?」
高埜木魂が低く問いかけると、精霊はくるりと空中で回転してから言った。

──沖縄で私を見つけて。
そして、必ず満月の夜に収穫して……絶対よ
「なんで……満月なんや?」
──ふふふ、それはあなたにはわかるはずよ。
精霊の声は、耳元から肌に触れるような感覚で響き渡った。
そして次の瞬間、彼女の姿はふっと消え、空気に溶け込むように消失した。
高埜木魂は数拍、黙ったまま目を細めた。
そして、短く吐き出す。
「ま、ええわ。
とにかく沖縄やな」
静けさが戻った施術室に、ほんのり甘い香りだけが残っている。
季節外れのビワの花──
それは、記憶の奥から満ちるような香りだった。
*
「美咲さん、このトラブル、解決できそうやで」
彼の言葉に、美咲は目を見開いた。
驚きと安堵が混じった表情が、そのまま胸の奥に響く。
「ただし、ちょっと時間が必要や。
3ヶ月ほどな。
それまで、これで凌いでくれへんか?」
高埜木魂は、ゆっくりと胸元の小瓶を外す。
止水──それは、
化粧師だけが所有できる、“応答する液体”。

彼は、棚に並んだ施術用の美容液のひとつを選び、蓋を静かに開ける。
揺らさず、音も立てぬよう、止水をひと滴。
透明な雫が、液面に落ちた瞬間──
空気が、変わった。
淡い色の液体から、ふわりと白檀の香りがしたかと思うと、続いて、空気中にかすかに漂っていた重さが消え去り、代わりに清らかさが満ちる。
まるで、夜明けに太陽が登る時、昨日の澱んだ空気を一掃し、新たな清々しい空気に変えてしまうかのように。
高埜木魂は、瓶を戻し、身を起こす。
所作は無駄なく、呼吸と一致している。
止水の“気”を乱さぬように。

やがて、部屋全体が“応じた”。
見た目は何も変わらない、しかし、場の輪郭そのものが、整ったようだった。
美咲はその光景に息を呑んだ。瓶に込められたものの特別さを、彼女は言葉にできないまま直感で理解していた。
「これで、少しの間はトラブルは出ひんはずや。」
高埜木魂の穏やかな声に、美咲は静かに頷いた。その表情には、救われたような柔らかい笑みが浮かぶ。
「ありがとう……」
彼女の言葉に一瞬の笑みを浮かべ、彼が背を向けようとしたそのとき、美咲が、そっと彼の手を取った。
ほんの短い時間、肌が触れ合う。

……その瞬間。
高埜木魂の内側に、かすかな異音が響いた。
(ん?)
(……遠い……)
鼓動の気配が、まるで霧の向こうから届くようだった。
高埜木魂は眉をひそめ、手を離す。その感覚は一瞬で消え去り、何事もなかったかのように空気は元に戻る。
「気のせいか……」
彼は手を離し、軽く笑う。
美咲は、何も言わず、見送った。
*
サロンの玄関を出たとき、
街の気配は、どこか静かに鎮まっていた。

空気の奥に、まだあの香りが残っていた。
季節外れの、ビワの花。
高埜木魂は、空を仰ぐ。
──満月まで、あと──十日。
彼は静かに歩き出した。
沖縄の地、そして満月の夜に待つ何か――精霊の囁きに導かれる旅路が、今始まろうとしていた。
【秘密の開示】
止水の精髄(万能美容液)
高埜木魂が首から下げている小瓶の中には、どのような肌トラブルも瞬時に治めることができる魔法のセラムが入っている。
このセラムを彼がどのように手に入れたかは、今はまだ開示できない。


