肌の精霊と対話する。

シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~

エピソード7〈満月の夜〉

午後7時、那覇のフェリー乗り場。
高埜木魂は、夜の空気を深く吸い込んだ。
わずかに残る潮の香り。空には雲ひとつなく、満月が海をなぞるように光を落としていた。
波の一つひとつに、白い帯が走る。

挿絵1
沖縄の港 満月
===

「なんとか間に合った……けど、ここからや。」

呟きに滲むのは、安堵と緊張。
この夜の静けさは、ただの静けさではない。
その奥に、言葉にならない何かが潜んでいる気がした。

山を越え、街灯が減るほどに、月の明かりが濃くなっていく。
満月は、まるで道そのものを照らすように、彼を導いていた。

ビワ農園に到着したのは、夜も深まりつつある頃だった。

畑の手前、小さな赤瓦の屋根を載せた管理小屋が、しんと佇んでいた。
屋根の下には風抜けの窓が開いており、中では鉄製の扇風機がぎい、と首を振っている。
壁には薬草の瓶、虫除けの葉、収穫の記録が書かれた紙。
作業台の脇には、小さな香炉と風防付きのランタンが置かれていた。

小屋の前に立っていたのが、島袋さんだった。

色あせたかりゆしに、深くかぶった麦わら帽子。
胸元には、手彫りの小さなお守り。
沖縄の土に根ざしたような体躯と、笑うと深く刻まれる皺。
その姿は、嵐の夜を何度も越えてきた者の、静かな構えを思わせた。

「高埜さん、きゅうな夜やいびーん。
たつまき注意報が出てるっちゅわけさ。
農園の上の空がまっくるいさ、ちょっと様子見しみそうね。」

(今夜は竜巻注意報が出てますよ。
農園の上空が真っ黒なんで、少し様子を見ましょうね)

高埜木魂は月を仰ぐ。
空は晴れ渡り、風もない。

「こんなに晴れとるのに?」

それでも、何かがかすかに揺らいでいた。
目には見えないが、確かに“場”の底に、ざわつくものがある。

「たつまきが起きたとしてもね、すぐにおさまるはずさ。」

(竜巻が来ても、すぐに静かになりますよ)

島袋さんはそう言って、にこりと笑った。

そのときだった。

空気が、変わる。

農園の上空に、黒い雲が音もなく集まっていく。あっという間に、空が裂けるような雷鳴が轟いた。
風が地を這い、渦を巻きながら立ち上がる。
葉がざわめき、枝がしなり、地面の砂が渦に巻かれたかと思うと、真っ黒なそれは、むくむくと頭をもたげてきた。
竜巻だ。

「こ、これは……」

高埜木魂は声にならない声をあげながら、その場に立ち尽くした。

見る見る成長するそれは、轟音をあげながら、自然の法則をひっくり返したかのような凄まじい勢いで、一瞬でビワ農園の空一体を覆い尽くした。

大地が呼吸を変え、空が怒りを見せるような、圧倒的な場の力だ。

──だが、それは長くは続かなかった。

雲が裂けるように消えていき、
空に、再び満月の光が戻る。
あれほど荒れていた空気が、今は吸い込むのも惜しいほど澄んでいた。

「たつまき、ちょっち逸れたみたいさー。
よかったさーねー。」

(竜巻は少し逸れたようです。
よかったです。)

「もう大丈夫やいびーん。
そろそろ行くびら?」

(もう大丈夫ですよ。
行きましょうか)

島袋さんは、落ち着いた声で言った。

「せやね、参りまひょ。」

農園の奥に足を踏み入れると、そこには月明かりに照らされたビワの森が広がっていた。
果実が重く枝を垂らし、葉は風のない夜にも関わらず、わずかに揺れているように見える。
濃く深い葉の間から、ところどころに浮かぶように見える黄金色の実。
まるで、夜の祝祭のなかに灯された灯火のようだった。

挿絵6
ビワ農園と満月
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地面はやわらかく、月光を含んでいる。
踏みしめるたびに、土の中にある水の気配が、足裏からじんわりと伝わってくる。
どこか甘く、湿り気を帯びた香り。
それは、発酵の初期のような、命が動き出す匂いだった。

「この木ぃはね、曾ばあの代からずっとあるもんやさ。
風にもまけん木だけど、こういう夜はね、なんか目を覚ます感じするさ」

(この木は、曾祖母の代から続いてるんですよ。
風にも強いけど、こういう夜はなんだか目を覚ますような気がします)

島袋さんの言葉に、高埜木魂は静かに頷いた。

収穫が始まる。
一粒、また一粒と、熟しきった実を手に取っていく。
実の重みと張り、そのどれもが、確かに“応えて”いるようだった。

「これだけあれば、とりあえずは十分や。
……ほんま、おおきに。」

高埜木魂は、手のひらの果実をひとつ見つめたまま、静かに言った。

「ぐぶりーさびたん。」

(どういたしまして)

島袋さんは、月を背に受けながら微笑んでいた。

夜空には、もう風はない。
だが、その静けさの底に、言いようのない何物かが蠢いている気配があった。

この夜に収穫された果実が、何をもたらすのか。
その答えは、まだ月の向こうにあった。