肌の精霊と対話する。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード11〈花影での再生〉

東京・神楽坂。
石畳に午後の斜光が落ち、路地の看板に小さな影をつくっていた。外は初夏を呼び込む空気。
ガラス張りの扉を開けると、光と木に抱かれた静かな空間が広がった。
棚には整然と並んだボトルが間接照明に照らされ、植栽の影が壁にゆらいでいる。
木の天井が柔らかく全体を包み込み、都会の喧騒から一歩離れただけで、呼吸のリズムが自然に変わっていくようだった。

美咲は、大きな窓を背にして、静かに椅子に腰を下ろしている。
この数週間の緊張が、まだ胸の奥に残っている。けれど今日は違う──静かな期待があった。
高埜木魂が沖縄から持ち帰った応答が、このサロンに届く日。
未知の扉が、ここでそっと開く予感に包まれていた。
(彼の止水のおかげで、なんとか持ちこたえられたわ。
今日からは、新しく積み直していける──)

高埜木魂は黒いバッグから小さなジャー容器を取り出し、美咲の前に置いた。
淡い乳白色──ビワ発酵エキスを配合した、新しいクリーム。沖縄から車で京都へ戻り、ラボで整え、今朝、新幹線でここへ運ばれてきた“できたて”だ。
「これは沖縄で応えてくれた“ビワ発酵エキス”や。
花影をもう一度、光らせてくれる鍵になる。
応えるのは、クリームやない。
あんた自身の肌やで」
美咲は小さく息をのみ、蓋をひねった。
指先にすくった瞬間、満月収穫のサンダルウッドがふわりと立つ。香りというより“気”だった。まだ触れていないのに、心の奥のざわめきが一段、静まっていく。

頬にのせる。
張っていた表面が、ふっとほどけた。乾いた土が雨を飲むみたいに、やわらかい道筋がするりと広がり、温度が奥へ奥へと移っていく。沈んでいた輪郭が、内側からそっと支え直される。
「……あっ」
驚きというより、思い出に近い。忘れていた“本来の調子”が、体の奥から戻ってくる。
高埜木魂の声が、子守唄の拍のように落ちる。
「ビワの実はな、満月の夜に自分で落ちる。
葉っぱの寝床に抱かれて、昼の熱と夜の冷えで、静かに息を換える。
人がするんは、最後のひと押しだけや。
自然がずっと続けてきたことに、耳を澄ませたらええ」

美咲は目尻、額、首筋へと指を運ぶ。
わずかな赤みが、言葉を交わす前に伝わり合うみたいに鎮まっていく。小さなざらつきがほどけ、肌の下で細い糸が編み直される感覚。
(表皮だけじゃない。
もっと奥が動いてる──)
高埜木魂がぽつり。
「このエキスには、炎症にブレーキをかける受容体──PPARに触れる成分が居てる。
それから、肌の“住人”たち──マイクロバイオータの多様性を戻す力もな。
水を抱え込む膜も整う。
乾く方へ流れんよう、内側の“川”の向きがそっと変わるんや」
額に乗せた指が、するりと滑る。
頬の内側がふわりとふくらむ。表情筋の薄い起伏が微かに目を覚まし、重力に寄り添っていた線が、自分の位置へと帰っていく。

(サルコペニアに抗うって、こういうこと……ね)
胸の奥まで呼吸が届き、目の裏の緊張がほどけた。
涙がにじむ。理由は無かった。
外から“効かされる”のではなく、“自分の肌が応える”場所へ、すっと戻ってきただけ。
それは、心からの安心だった。
美咲はジャーをそっと閉じ、両手で包む。
沖縄の夜と満月の白、潮の匂い、畑の風──それらが一滴ずつ、この部屋の空気に混ざっていく気がした。
高埜木魂がもうひとつ、静かに添える。
「美はな、飾ることやない。
内から“うん”て頷いたときに、外が勝手に整う。
それが一番、長持ちする」

その日から、声が届き始めた。最初は控えめに、やがて毎日のように。
「朝、鏡を見てびっくりしました。
赤みが引いてて、ファンデが薄くて済みました」
「頬の弾力、戻ってきた気がします。
指で押すと、前より“返ってくる”」
「昨日より今日の方が明るいって言われました。
写真、送りました──光の拾い方が違うんです」
「粉ふきが出なくなった。
夕方の突っ張りが怖くない」
「肌が静かで、メイクが乗る。
なんか、顔が優しく見えるって」
受付前の椅子に人が増え、スタッフの会話に冗談が戻る。新しいお客様も増えてきた。
予約表の空白がひとつ、またひとつと埋まり、美咲の胸に、静かな灯がともった。
(花影は、息を吹き返したな──
もう大丈夫やろ)
高埜木魂は、ひとときの安堵の呟きを漏らした。
*
閉店前。
美咲は片付けの手を止め、ジャーの縁を指で撫でた。
「……ありがとう」
高埜木魂はカウンター脇で短く頷く。
「ここからや。
無理はせんと、肌の“返事”を聞きながらな。
応答は、焦らさんのがいちばんよう育つ」
そう言うと、彼は上着の襟を整え、視線で室内を一巡する。
香りの層のさらに奥で、何かが静かに“観ている”気配が一瞬だけ張り、すぐにほどけた。

高埜木魂は誰にも気づかれぬまま扉へ向かい、振り返らずに出ていく。足音は軽いが、背中には深い疲労の影が差していた。
通りに夜が降りる。夏の匂いが薄く漂い、ガラス越しに街のネオンがにじむ。
花影は、たしかに立ち直り始めている。
あとは、続けること。積み重ねること。
小さなジャーの中の“応答”と、ここに集う人たちの“応答”が、明日の光を少しずつ強くしていく。


