肌の精霊と対話する。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード1〈エステサロン「花影」〉

東京・神楽坂の裏通り。
喧騒からわずかに外れたその一角に、静かに佇むサロンがある。
名は「花影」。
予約制のプライベートサロン。
木の格子戸は柔らかな陰を湛え、控えめに設えられた調度が、空間に静かな品を添えている。
和の意匠をベースにしながらも、どこか洋の余白も感じさせるその空間は、訪れる者の心をほぐすための配慮に満ちていた。
高埜木魂(たかの・こだま)は、玄関を静かに開け、ひと呼吸おいて中へと足を踏み入れた。
空気は清浄で、整っている。──だが、わずかな違和感が、皮膚の内側にかすかに触れた。
「木魂さん……!」
奥から、美咲の声が響く。
彼の姿を見つけた瞬間、駆け寄ってきた彼女の目元には、涙の痕が淡く残っていた。
そのまま、言葉もなく立ち尽くす。

「来てくれて……本当に、ありがとう。
もう、どうしたらいいかわからなくて──」
かすれた声が、途切れる。
泣き出しそうになるのを堪えながら、何かを伝えようとする美咲に、高埜木魂は、静かに、けれど優しく言葉を挟んだ。
「最近、何や新しい施術を始めた言うとったけど、それが原因かもしれへんな?」
彼は、原因は別にありそうだと思いながらも、憔悴した表情の美咲に、さらなる心配をさせるような言葉は口にできなかった。
高埜木魂の問いかけに、美咲は肩を落とす。
「エレクトロポレーションとか、イオン導入の新しい機器をいくつか導入したけど、
何度チェックしても動作は正常なのよ」
「最初は『たまたま肌が荒れたのかな』って思ってた。
でも……増えていくのよ。
ひとり、ふたり……そのうち、毎日のように『肌が赤くなった』『吹き出物ができた』って苦情が来るようになって……。」
高埜木魂は労るような眼差で美咲を見返す。
「なるほどな。
ほな、最近入れた機械、先に見せてもろうわ。
心配せんでええ。
すぐに済む」
その一言に、美咲は目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。
「……はい。
お客さまの対応があるので、私は奥に。
なにかあれば、すぐ呼んでください」
言い足りないことが、彼女の視線の奥にいくつも揺れていた。
けれど、それを言葉にする余裕もなく、美咲は身を引いた。
足音もなく、ドアが静かに閉じられる。
室内に、ひとりきり。
光は柔らかく、ほのかに甘い香りの気配がほんのわずか残っているだけ。
だが、その柔らかさの奥に──言葉にならぬ“重み”が、確かに潜んでいた。

高埜木魂は無言で施術室へと歩を進めた。
新しく導入された美容機器のひとつに手をかけ、電源を入れる。
波形を確認し、数値を見て、機器に触れ──思った通り、すべて正常。異常はない。
(……っちゅうことか……)
背中に触れるような音のない警鐘が、徐々に高く鳴り始めた。
高埜木魂の内側──首にかけた止水が、わずかに震える。
何かが沈んでいて、何かが呼んでいるようだ。
高埜木魂は、ふと室内を見渡した。
その視線の先。大きなガラスの窓際の低いテーブルに、果物籠が置かれていた。
橙色の果実が、ざっくりと盛られていた。
やわらかな陽の残光をその皮に受け、かすかに光を返している。

──ビワ。
歩を進めると、香りが立った。
ただの芳香ではない。記憶をくすぐるような、懐かしさを帯びた香り。
(ビワ……懐かしいな。
子どもの頃、よく食べたもんや)
風呂上がりの夏の夜。
子どもだった彼の手に握られた、冷たく湿った果皮の感触。
ほのかにビワの実の香り、いや、花の香りが立ち込めたかに思えた。その瞬間、不意に何かが彼の意識を貫いた。
空気が止まる。

──どなたはんや?
それは“音”ではなかった。
だが、明らかに言葉のかたちを持った“響き”が、意識の奥へと落ちてきた。
香りとともに、気配がふくらんでいく。
甘い。けれど、底が見えない。
光を思わせる香りなのに、どこか湿っていて、温度がある。
それは、いきなり来た。
“ふふふ、私なら、その問題を解決できるのに……ふふふ。”
──声、だ。
高埜木魂の頭の中に、誰かの声が飛び込んできた。
反射的に目を閉じる。
視覚、嗅覚、触覚をそっと閉ざし、ただ意識の中に響く“それ”に、全神経を向けた。
(……いまのは……誰の、声や?)
少女のようでもあり、成熟した女のようでもある。
軽やかで、妖しく、挑発的で、どこか甘えてもいる──そんな声。
高埜木魂は動かなかった。
だが、内心は、わずかに乱れていた。
こんなふうに、香りとともに誰かの“声”が響いてきたのは、彼にとって初めてのことだった。
動揺を悟られぬよう、呼吸を静かに整える。
次に来るものを“聴く”ために、彼は自らの全感覚を開いていく。
香りが、肌の内側にしみ込んでいく。
胸の奥に、ひとしずくの熱が灯る。
止水が、呼吸に合わせて、瓶の中で揺れる。

言葉は、続かない。
だが、その沈黙の奥で──誰かが確かに、彼を見つめている。
気配が、呼びかけていた。
(なるほどな……。
俺は呼ばれてきたっちゅうことか……)
高埜木魂は、はっきりと分かった。
これは“偶然”ではない。
何かが彼を誘導したのだ。
首にさげた小瓶の中で、止水が、ふわりと波打った。
赤い液体が、呼吸に合わせるようにゆれる。
籠の中のビワが、ほのかに発光しているように見えた。
宙に浮かびそうなその果実は、ただの果実ではない“存在”として、そこに在った。
気配は──消えていない。
むしろ、これから語りかけようとしている。
高埜木魂は、そっと目閉じた。

「もう、ええやろ。
出てこんかい」

