肌の精霊と対話する。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード12〈盗まれた露〉
花影の空気は、ようやく整い始めていた。
あの日、肌の“膜”が静かに応えたのは、一過性の奇跡ではなかった。
触れることの意味が変わり、施術を受けた人々の言葉や頬に、少しずつ柔らかな光が戻りつつあった。
──けれど。
その空間に、目には見えない“ほつれ”が潜んでいることを、
高埜木魂は、肌の奥で察していた。
*
沖縄・ひめゆりの塔から戻った午後。
OISTの研究室に入った瞬間、空気の密度が違っていた。

鍵は壊されていない。痕跡もない。
それでも、棚に並ぶ瓶の列に──一本、欠けていた。
満月の夜に得られた最初の“応答”。
黄金の液体を宿した、ただ一つの瓶。
それだけが、静かに姿を消していた。
木魂は、棚を整え直し、声もなく息を吐いた。
その手はいつもどおり穏やかで、揺らぐことはなかった。
*
数日後、東京・神楽坂。
花影のサロンには再び穏やかな気配が戻っていた。
だが、午後の施術枠に現れた一人の女性が、空気を変えた。

黒のロングワンピース。光沢のないストール。淡い化粧。
自然体に見えて、隙のない佇まい。
予約票の紹介欄は空白。
──香りが、整いすぎている。
人の営みから切り離された“沈黙の香り”。
癒やされに来た空気ではなかった。
目的は──。
高埜木魂は、控え室から「女」の気配を感じていた。
無意識のうちに、異能力状態に入り、花影全体のスキャンを始める。

施術の後、案の定、サンプル棚から一本のクリームが消えていた。
高埜木魂は、棚を静かに閉じながら一人呟いた。
(……なるほど、最終形態までも手に入れんとわからんのやな。
けど、あの暗号が解けへん限り、いくらやっても無理や)
*
営業終了後。
空が群青に沈みはじめた頃、高埜木魂は美咲に声をかけた。
「花影に残ってる原料と配合表、ちょっと持ち帰らせてもらうで」
「……なにか、あったの?」
「まあ、ちょっと風が吹いた感じやな。
念のためや。
ほんまの嵐になる前に、片付けとこう思て」

箱を封じ終えたとき、美咲が呟いた。
「でも……あのクリームは、ここに来る人を救ってたよ」
木魂は、わずかに笑んで応じる。
「せや、あれはもう“応答済み”や。
あの夜の、風と葉と光が重なった刻にだけ生まれたもんや。
誰が真似しても、そこまでは届かへん。
──心配せんでええよ。
花影で使うぶんには、なんの問題もない。
これからも、ここで整えてあげてな」
その声は、静かであたたかく、美咲を安堵させた。

……京都に戻った彼の体は、見た目以上に削られていた。
ビワの発酵液を追う旅の中で、異能力を幾度も使った。
それは、美に応える代わりに、自らの命を削る行為でもあった。
異能力を使う度に、彼の内なる記憶が消し去られるように空白が生まれる。一つ、また、ひとつと。
しかし、そこには、深遠な理由があった。
だが彼自身はまだ、その仕組みに気づいていなかった。
──京都。
夜のラボ。
研究机の奥に設えられた、特別な空間
── Zeku ──
黒いフレームと特殊ガラスで囲まれた半畳ほどの小さな座。
畳の床の中央に香炉があり、白煙がゆるやかに立ちのぼっている。
外気も音も遮断され、香りと光だけが透過する。
天井の先は“空(くう)”に繋がるとされ、異界の気配が漂っていた。
高埜木魂は、止水を香炉に掛け、「白」を纏うと、憔悴しきった身をそこに沈めた。
呼吸は浅く、体温は急速に奪われ、指先から骨の奥まで凍えるように冷たい。
血の巡りは鈍く、まるで自らの命を一滴ずつ削って差し出したかのようだった。

長い銀髪は乱れ、頬にはかすかな蒼白が差している。
香炉に賭けた止水が共鳴し、微弱に明滅しながら、消えかけた灯を支えるように彼の存在を見守っている。
香が満ちていく。
深い森を思わせる専用の香は、乱れた呼吸と血流をゆっくりと整えていく。
だが、それは失ったものを戻すのではない。
むしろ、空となった穴に、どこからか静かな“何か”が注ぎ込まれ、埋められていく──そんな感覚だけがあった。
ふと、甘やかな気配が混じった。
……冬に咲く、ビワの花の香り。
姿はない。声もない。
ただ“そこに在る”ことを知らせるように、香りだけが漂っていた。
高埜木魂は瞼を閉じ、荒い呼吸を押し殺す。
全身は鉛のように重く、意識さえ霞んでいく。
それでも、その香気に触れると、どこかで「まだ歩まねばならない」という確かな余韻だけが残った。
煙が揺れ、影が滲む。
やがて、外界の気配は遠のき、香の層だけが静かに残った。
──夜は、深く更けていった。

