肌の精霊と対話する。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード6〈遠路はるばる〉
京都の朝、深い霧が街を包んでいた。
視界を奪うほどの白い気配のなか、高埜木魂は静かに歩を進める。
アストンマーチン DBS 770 Ultimate Volante
──漆黒の車体が、駐車場の奥で低く身構えていた。

無言のまま乗り込み、ドアを閉める。
シートに沈む体に呼応するように、エンジンが低く唸った。
そこには暴力的な轟音はない。ただ、心地よい高次元の力の息吹があった。
長い旅の始まりだった。
目的地は沖縄・那覇。
鹿児島まで陸路を南下し、そこからフェリーで海を渡る。
移動に要する時間は約三十八時間。
満月まで、あと二日。
一瞬の迷いも、もはや許されない。
スマートフォンのスピーカー越しに、ビワ農園の農家の声が流れる。
高埜木魂は予定が変更になったことを詫びた。

「ギリギリになりますが、必ず伺います。……その夜、収穫します。」
通話を終えると、彼はハンドルに両手を添え、静かにアクセルを踏み込んだ。
アストンマーチンが霧を切り裂きながら動き出す。
黒いボディが地を這うように流線を描き、霧の粒子を背後へ押しやる。
朝の光が、ゆっくりと霧を拭い始めていた。
金色の光が舗道をなぞり、車のフロントにかすかな輝きを与える。
その瞬間、高埜木魂の目がわずかに細まった。
(──まるで、道そのものが満月に向かって伸びているみたいやな)
高速の入口を抜ける。
怒涛のエンジン音が、まるで濁りのない水流のように空を貫いた。
アストンマーチンは、高速道路を切り裂くように、ただ一直線に南を目指して走る。

車内には、必要最低限の道具と、重要な資料が積まれていた。
止水も、胸元で変わらず静かに揺れている。
「……あの声、今度はどこで聞けるんやろな」
誰に向けたでもない独り言。だが、その声音には、かすかな緊張が滲んでいた。
*
車窓の風景が、ゆるやかに変わっていく。
都市の縁、田畑、山間。
光と影が交互に現れ、遠ざかっていく。
古刹での啓示。
冬に咲くビワの花の香り。
そして、あの満月の条件。
“時間通りに届ける”という次元を超え、
この旅が素材そのものにどう作用するのか──
あるいは、自分自身に何をもたらすのか。
思考はときに遠くへ揺れ、また車体の振動に引き戻された。

途中のサービスエリアで短く停車する。
コーヒーを一口。
そのわずかな苦味が、呼吸の奥を整える。
月はまだ見えないが、空にはその気配がある。
明るさとは別の次元で、存在が“来ようとしている”感覚。
止水が、静かに瓶の中で揺れる。
風もないのに、かすかに波を立てた。

高埜木魂は小さく息を吐き、再びアクセルを踏み込んだ。
アストンマーチンが咆哮する。だが、その音も、やがて背景に溶けていく。
車内には、静寂が戻った。
*
夕暮れ。
鹿児島市内の街並みを抜け、フェリーターミナルに近づく。
空は群青色に染まり、海からの風が頬に触れる。
車をフェリーに乗せる作業は、流れるように終わった。
高埜木魂は、船室へと移動する。

窓の外、海面には月の光が揺れていた。
まだ完全な満月ではない。だが、その輪郭ははっきりとしている。
光が、海の上で道を描いているかのように、遠くまで伸びている。
(……ここから先やな)
視線は、那覇の方角を向いていた。
目には見えないが、そこに“呼びかけている何か”がある。
「今回の旅は、まるで月に導かれてるようやな……
その先にあるもの。
──見届けるわ。」
そう口にしてから、高埜木魂は再び黙った。
言葉が不要になるほど、世界は静かだった。

船はゆっくりと岸を離れる。
エンジン音と海のざわめきの中に、わずかにビワの花の香りが混じったような気がした。
それは、精霊の声の予感だったのかもしれない。

