肌の精霊と対話する。神秘のビューティサーガ。
シーズン1 月落ちの刻 ~ビワの精霊の物語~
エピソード8〈月の暗号〉
収穫は、間に合った。
満月の夜、島袋の農園で手に入れた完熟のビワは、ひと粒ひと粒が月の光を湛えていた。

翌朝。
高埜木魂は、アストンマーチンを北へと走らせていた。
助手席には、前夜に収穫したビワ。
ほのかに甘い香りが、車内の静けさをやさしく包んでいる。
向かう先は、この地の最先端研究施設──沖縄科学技術大学院大学、通称OIST。
恩師の協力により、発酵実験のための特別なスペースが用意されている。
高埜木魂の表情に、油断はなかった。
ただ、静かに呟く。
「ここで失敗するわけにはいかん。」
決意というより、何かが胸の奥でざわついていた。
*
那覇から車で1時間余り。
OISTの実験棟に着くと、白く整った廊下を抜け、無人の研究室へ。

音のない空間。
冷房のわずかな吹き出し音が、機器の静寂を際立たせている。
高埜木魂は、無駄のない手つきで作業を始めた。
果実を洗い、刻み、種を除き、あらかじめ用意された菌を加える。
温度、湿度、pH──すべてが制御された環境で、ひとつずつ、丁寧に。

──数日が過ぎた。
小さなガラス容器の中に、黄金がかった液体が現れた。
その揺らめきは、どこか月の残像を閉じ込めているようにも見える。
「よし、ええあんばいや……」
高埜木魂は、ビワと微生物に語りかけるように呟き、上澄みを慎重に汲み取る。
そして、液体に触れた──その瞬間。

……何も感じない。
冷たい感覚が、背筋を駆け抜けた。
失敗か──?
彼は手を止め、動揺を抑えきれないままつぶやいた。
「あの日は確かに、満月の夜やった……」
満月。農園。
あの夜の光と香り、そして選り抜いた実たち。
すべて、完璧だったはず。
なのに。
触れても、沈黙しか返ってこない。
高埜木魂は瓶を戻し、テーブルに手をついた。
止水は沈黙していた。
“触れればわかる”はずの彼の異能も、まるで呼応しない。
フェリーでの移動中に、ビワの精霊と交わした対話が脳裏に甦った。

“ふふふ……この言葉を、決して忘れないようにね。”
“月落ちの刻、自らの床で。”
「なんや、それはどういう意味や?」
精霊は微笑んで、こう言った。
“ふふふ、あなたなら見つけられるわ。”
──それきりだった。
言葉も、姿も、風に紛れるように消えていった。
高埜木魂は、目を開けた。
目の前の液体は変わらず静かで、ただ無垢な色だけが揺れている。

「……わからへん。」
自分の能力では届かない。
どれだけ理屈を積み上げても、自然の真実には手が届かない。
現場へ行かなくては。
農園に──きっと何かがあるはずだ。
根拠のない考えだった。
だが、高埜木魂は何かに導かれるような思いに駆られていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、止水の瓶を首からそっとなぞった。
静かに振り返り、研究室を後にする。
アストンマーチンに乗り込むと、エンジンが低く響いた。
陽はもう傾き始めていた。
“月落ちの刻、自らの床で。”
この言葉に秘められた意味は、まだ閉ざされたままだ。
だが──それを見届けるのは、他でもない自分だということだけは、確かだった。
*秘密の開示
高埜木魂の異能力
高埜木魂は触れるだけでその人の肌のトラブルを瞬時に把握する異能力をもつが、同様に原料などに触れるだけで、その原料の美容に対する効果効能を理解することができる能力も有する。


