きようと
シーズン1
①|音になる前

母が亡くなった日のことを、ガビは細かく覚えていない。
病室の匂いと、窓から差し込んでいた光の角度だけが、いまも身体の奥に残っている。
その少し前、帰り際に、母は小さな瓶を差し出した。
言葉は少なかった。
「持っていなさい。」
頼みでも、命令でもなかった。
それが、かえって重かった。

瓶は掌に収まる大きさで、驚くほど軽い。
中の液体は、海の色に似ている。
エメラルドグリーン。
揺らせば動く。
けれど、揺らさなくても、光の向きによって位置が変わるように見えた。
ラベルには、ひらがなで印字された文字があった。
きようと
読める。
けれど、意味としては掴めない。
都市の名前だと気づいたのは、あとになってからだ。

フィリピンでの暮らしは、音が途切れない。
誰かの声があり、誰かの気配があり、身体はいつも外界とつながっている。
瓶は机の上に置かれたままだった。
目に入ることはあっても、確かめようとはしなかった。
日本に来た理由を聞かれたとき、ガビは音楽の仕事だと答えた。
それは嘘ではなかった。
ただ、本当の理由でもなかった。
瓶に書かれた音が、頭から離れなかった。
意味を知りたい、というより、
この音が指している場所に、一度立ってみる必要がある気がした。

長い移動のあと、東京に着いた。
空港は、人が多いのに静かだった。
声は低く、足音は揃っている。
外に出ると、光は強いのに、音が前に出てこない。
「寒いね。」
隣の席にいたカップルが、目を見合わせてそう言った。
ガビは窓の外を見たまま、その言葉の温度だけを聞いていた。

東京で用意された宿は、必要なものだけが揃っていた。
窓を開けると、街の光が入ってくる。
それでも、フィリピンの夜とは違う。
何かが、きちんと止まっている。
テーブルの上に、瓶を置く。
触れていないのに、液体が、ほんのわずかに揺れた。
理由は考えなかった。
そういうものだ、と身体が先に納得していた。
数日後、ガビは行き先を決めた。
瓶のラベルに書かれた音を、もう一度だけ確かめたあと、
京都行きの切符を買った。
きようと

電車は、東京を離れるにつれて静かになった。
人は乗っている。
話し声もある。
けれど、景色が変わるにつれて、音が後ろへ下がっていく。
京都に着いたとき、空気はさらに軽くなっていた。
冷たいが、刺さらない。
歩く人の足取りが、地面に吸われていく。

宿に荷物を置き、外に出る。
ガビは、瓶のラベルに書かれた音を、頭の中でなぞりながら歩いていた。
それ以上の目的は、持たなかった。
どこかで、音が鳴った。
弦の音だった。
続かない。
途切れる。
間が、長い。
音が消えたあと、空間が残った。
残る、というより、立ち上がった。
ガビは、その場に立ち尽くした。
呼吸が深くなっていることに、あとで気づいた。

宿に戻ると、部屋はさらに静かだった。
窓を閉めても、閉めた感じがしない。
テーブルの上に、瓶を置く。
液体は、また揺れた。
揺れ方が、東京のときとは少し違う。
ガビは、瓶を手に取らなかった。
触れれば、何かが変わってしまう気がした。
翌朝、早く目が覚めた。
音は遠い。
朝なのに、急かされない。
曲がり角を一つ曲がったところで、足が止まった。
理由はなかった。
空間が、一段落ちた気がした。

そこに、ひとりの男がいた。
年齢は分からない。
着物のようにも見えたが、違う気もした。
ガビには、それ以上のことは分からなかった。
ただ、立ち方が少し違った。
「遠くから来はったな。」
男は、そう言った。
ガビは何も答えなかった。
問いかけられた気がしなかった。
男は、瓶のある方を一瞬だけ見て、視線を戻した。
「音はな、聴こえへん音を聞くこともある。」
それだけ言って、歩き出した。
背中は、すぐに人の流れに溶けた。
いたのかどうかも、確かではない。
ガビは、その場に立ち尽くした。
瓶の中で、液体が静かに揺れている。
答えはなかった。
けれど、問いは、もう生まれてしまっていた。

ガビは歩き出した。
この時間を、もう少し生きてみたいと思った。

