ヴィウの囁きと美しき挑戦。

シーズン1 始まりのささやき

エピソード2〈崩れゆくリズム〉

朝の会議室に、プリントアウトされた資料が並んでいた。
立て直しの新企画──一週間で組み直したとは思えない完成度に、スタッフから驚き混じりの声が漏れる。

挿絵1
スタッフの喜びと奈緒美の疑問
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「さすがチーフですね」

「これならいけそうです」

部長もうなずき、「君ならできると思っていた」と短く言った。

ほんの数日前まで崩壊寸前だったプロジェクトは、いまや再び走り出している。
しかし、奈緒美の表情に晴れやかな色はなかった。

(立ち直った。
そう見えているんだ、みんなには)

奈緒美は頬に微笑みをつくった。だが、その内側で別の声が響いていた。

(でも…本当にこれでいいの?)

アイデアは理屈として正しい。データも裏付けている。
けれど、胸の奥で何かがしっくり来ない。

「ランチどう?」

昼休み、スマホにメッセージが入った。
送り主はゆう子。奈緒美と同い年で、同じ会社の別部署にいる親友だ。

挿絵2
カフェ・セレニタ外観
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会社から歩いて数分、いつもの「カフェ・セレニタ」。
黄色い壁にグリーンの窓枠、外にはツタや花がからまり、テラス席には小さな鉄の丸テーブル。
晴れた日には光を浴びて柔らかな陰影を作り、街角の一角を穏やかに照らしている。

中に入ると木のテーブルと椅子、壁には古い絵画や洋書が並び、奥では豆を挽く音。
深煎りの香りがふんわりと漂い、オフィスの喧噪から切り離された別世界だった。

窓際の席に座ったゆう子は、メニューを閉じると弾む声で言った。

「ねぇ、聞いて!
新しい彼氏ができたの!」

奈緒美は少し驚き、目を瞬いた。

「そうなの?
どんな人?」

挿絵3
ゆう子の話
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「カナダ人なの。
こっちじゃ考えないようなことを普通に言うのよ。
それがちょっと面白くて」

「カナダ人…」

その単語だけが、奈緒美の胸に引っかかった。意味もなく、遠い未来を連想させる。

「で、奈緒美。
最近、肌がちょっと荒れてない?」

「わかる?」

「わかるよ。
ファンデで隠しても、目の下の疲れは隠せないもん」

ゆう子は紙ナプキンでカップを拭いながら、小さな声で付け加えた。

「無理を積み重ねても、いいものはできないよ」

「……わかってる」

わかっている。けれど止まれない。
無理は承知。それでも、止まった瞬間、全体が崩れてしまう気がするから。

午後の会議は時間通りに進み、反応も悪くない。
スタッフの一人が「これなら勝てますね」と言う。
奈緒美は笑みを返しながら、心の奥に小さなざらつきを覚えた。

(勝てる? 本当に?)
(私、何と戦っているのかな……)

ようやく仕事の段取りは整い始めた。
だが家庭のリズムは、逆に崩れていた。

挿絵4
会社のサニタリールームでの奈緒美
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会議の後、化粧直しのサニタリースペースで、奈緒美はふと、今朝の自宅のリビングを思い出した。
健一とは「行ってらっしゃい」「おやすみ」以外の会話がほとんどなくなり、
子どもたちの声を聞く時間は減り、肌は日ごとに荒れていく。
鏡を見るのが怖かった。

(このままでいいの?)

その問いが、企画のことなのか、私生活のことなのか、境界が曖昧になっていく。

夕方、祐輔が分厚いファイルを抱えて近づいてきた。

「チーフ、数字の差し込み終わりました」

「助かるわ。
今回の骨子、祐輔くんがまとめてくれたおかげで形になったのよ。
ありがと」

「いえ、まだまだです。
…でも、任せてもらえて嬉しかったです」

祐輔は少し照れたように笑い、続けた。

挿絵5
祐輔、自分のことを話す
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「ぼく、この会社、営業で入ったんですけど……本当はクリエイティブやりたくて。
 あ、いや、前はそんなこと思ってただけで」

言葉を打ち消すように笑ってから、気を取り直すように声を落とした。

「昨日報告したログの件、特に大きな問題はなさそうなんですけど……なんとなく引っかかる感じがあって」

「気になるなら見ておいて。
何かあれば教えて」

「了解です」

ほんの一瞬のやり取りだったが、奈緒美は若い彼の素直な熱を感じた。
それは、かつて自分が抱いていた衝動にも似ていた。

挿絵6
家族のいないリビング
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終電間際に帰宅すると、リビングは暗かった。
テーブルの上には子どもたちのプリントやお菓子の袋、読みかけの雑誌が散らばったまま残っている。
今は誰もいないテーブルを、奈緒美はしばらく立ち尽くして見つめた。
そこに、彼女のいない時間の気配がまだ残っていた。

洗面所の鏡に映った顔は、朝よりさらに色を失っている。
肌は乾き、目の下のクマは濃く沈んでいた。

挿絵7
奈緒美、愛莉の部屋の前
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奥の愛莉の部屋のドアの隙間から、かすかな灯りが漏れていた。
扉をノックして「早く寝なさい」と言おうとしたが、唇が動かなかった。
言葉を飲み込んだまま、背を向ける。

そのとき、スマホが震えた。
画面に浮かぶ見覚えのある言葉。

──ヴィウの囁きに耳を傾けて。
  キレイはあなたの中にある。

(何よ、これ……)

挿絵8
奈緒美のスマホにメッセージ
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眉間に力が入り、舌打ちしそうになる。
癒す言葉のはずなのに、今はただ苛立ちを誘うだけだった。

奈緒美は目を閉じ、深く息を吐いた。
企画は立ち直りつつある。
でも、自分の心と生活のリズムは、確実に崩れかけている。

(何かが違う。
このままでいいの?)

その問いだけが、夜の静けさに残った。