ヴィウの囁きと美しき挑戦。
シーズン1 始まりのささやき
エピソード5〈再生の扉を開く〉
役員室の窓から差し込む朝の光は冷たく白かった。
壁の進行表には「展示会まで残り9日」と赤字で記されている。
長机を挟み、部長の平木慎吾・奈緒美・祐輔の三人が向き合っていた。
この時間、まだ他の社員は出社していない。限界に追い込まれた者だけの、静かな会議だった。

部長が低い声で言った。
「このままでは詰んでいる。
だが、止まるわけにはいかん」
資料を置き直しながら続ける。
「行動の柱は四つだ。
まず、これまでの蓄積情報や途中で頓挫したプロジェクトをすべて洗い直せ。
緊急時に使えるものがあるかもしれん」
奈緒美はうなずき、ペンを走らせる。
責任者として「過去の遺産」に頼る屈辱はある。だが、いまは選り好みしている余裕はない。
「次に、協力会社や業務提携先にあたれ。
未発表企画が眠っていないか確認しろ。
即時に形にできるものがあれば、買収の可能性も探る」
祐輔の顔がこわばる。
(時間も費用も厳しい……それでも探さなければ)
奈緒美はその表情を見て、小さく頷いた。

「三つめ。
ライバルが使っている原料が本当に我々と同じものなのか、徹底的に確認する。
憶測で動くな」
祐輔がすかさず
「サーバーログも洗い直します」
と応じた。
その声に、部屋の空気がわずかに引き締まる。
「四つめ。
同じだったとしても、こちらにしかできない訴求を見出すことだ。
差を作り出さなければならん」
重苦しい沈黙のあと、部長は椅子に深く腰を下ろした。
「……以上だ」
そして祐輔を見た。
「北川。
これをチーム全員に伝えてくれ。
日に2回以上、夏目に報告することも徹底してだ」
「はい」
祐輔が背筋を伸ばした。
奈緒美は手帳を閉じながら、矢面に立つ自分の立場を痛感した。
(すべての矢が私に向かう。
逃げるわけにはいかない)
会議はそれ以上の具体策を生まないまま終わった。
だが「動くしかない」という意思だけが、薄い炎のように灯っていた。
*
石畳の角を曲がると、黄色い壁と緑の窓枠が見えてくる。
カフェ・セレニタ。
扉を押すと、深煎りの香りがふわりと胸を包んだ。
窓から射し込む初夏の光が、テーブルやグラスを白く照らす。
ふだんなら心地よさを覚える光――けれど、この日は眩しすぎて落ち着かなかった。
店内の穏やかな音楽や笑い声、香ばしい豆の香り。
すべてが「穏やか」であるほどに、自分の暗さを際立たせる。
明るい世界にひとり置き去りにされたような孤独感が胸を締めつけた。
窓際で手を振るゆう子の表情には、心配の色が淡くにじんでいた。
奈緒美は向かいの椅子に腰を下ろし、カップを両手で抱えた。

「顔色、ひどいよ」
ゆう子が眉を寄せる。
「……全部が無意味になった気がするの。
プロモーションも展示会の準備も。
製品を奪われた今、何を信じればいいのか」
二人はカップを見つめたまま、長い沈黙に沈んだ。
カップの縁から水滴が一つ落ち、テーブルに小さな丸を作る。
外から車の音がかすかに響く。
奈緒美は指先でカップの取っ手をなぞり、言葉を探した。
ゆう子も視線を落とし、ため息をひとつ落とす。
その間に、得体の知れないものが二人の間を通り抜けたように思えた。
(情報が漏れてる…?)
「……もしかして」
奈緒美がつぶやいたその瞬間、ゆう子も同じ言葉を口にした。

声が重なり、目が合う。
短い間。
胸に走る疑念を、二人はすぐにかぶりを振って追い払った。
「いや、そんなはずないよね」
「……うん」
空気が沈みかけたとき、ゆう子がわざと声を強めた。
「でも、奈緒美が落ち込んでたらだめ!
しっかりしなきゃ」
奈緒美はかすかに笑みを浮かべた。が、笑いにならなかった。
「……でも、こんな状態で、何をしっかりすればいいの」
ゆう子は真っ直ぐに彼女を見つめ、カップを包み込む。
「あのね。
いい人がいるの」
声にわずかな光が差す。
「京都にいる“化粧師(けわいし)”……高埜木魂さん。
私、一度だけ会ったことがあるの。
あの人は、美容家というより、人の“心”を整える存在なの」

(ゆう子、あなたはなにを言ってるの?)
奈緒美は思わず問い返した。
「美容で、この状況が変わる?」
「変わるかどうかは、行ってみないとわからない。
でも、今のあなたに必要なのは“動くきっかけ”じゃない?」
窓の外に目をやると、昼の青空に白い月が浮かんでいた。
明るいのに、丸い輪郭がぼんやりと滲んでいる。
(満月……)
胸の奥で、なにか遠い記憶が呼び覚まされる。
この状況を照らす光になり得るのか――奈緒美にはまだわからなかった。

*
家の中は静かだった。
子どもたちの部屋からは小さな寝息。
リビングの時計の秒針が淡々と響いている。
奈緒美はソファに腰を下ろし、窓の外を見つめた。
(美容で変われるはずがない……)
理性はそう告げる。
だが同時に、「このまま動かなければ、すべてが崩れる」という声も響いていた。
それに――ゆう子があれだけ言うのには、何か理由があるはず。
あの子は勘が鋭いところがあるし……。
健一の寝室から寝返りの音が聞こえた。
優しさに触れれば壊れてしまう。
孤独と責任だけが、奈緒美を縛っていた。
窓の外、街の灯りの上にまた月があった。
街の光にかき消されながらも、そこに確かに浮かんでいる。
奈緒美は小さくつぶやいた。
「行ってみよう……」


