ヴィウの囁きと美しき挑戦。

シーズン1 始まりのささやき

エピソード6〈京都の化粧師〉

挿絵1
新幹線で京都に向かう奈緒美。
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新幹線の窓から見える山並みが、少しずつ近づいてくる。
朝の光はまだ柔らかく、川面には白い霧が漂っていた。
都会の速度とは別の、静かな呼吸に包まれていくようだった。

奈緒美はシートに深く座り直し、胸の奥で何度も名前を反芻した。
――高埜木魂(たかのこだま)。

(本当に、この人に会って何かが変わるのだろうか)

半信半疑の思いは消えない。
けれど、動かなければ終わる――その切迫感だけが背中を押していた。

京都駅を出ると、湿り気を帯びた空気が肌を撫でた。
東京よりも濃い緑の匂いが混じり、胸の奥がふっと緩む。

挿絵2
京都の街を歩く奈緒美
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小さな路地に足を踏み入れると、町家が静かに並んでいた。
石畳は朝露に濡れてきらめき、木の格子からは斜めの光が差し込んでいる。
どこからか鳥の声が響き、遠くの寺の鐘の音がゆるやかに重なった。

奈緒美は歩みを進めながら、胸のざわめきを抑えられなかった。
やがて、一軒の木戸の前に立ち止まる。
鼻先をかすめたのは、白檀の香り。

その瞬間、身体が硬直した。
夢の中で見た景色が、そこにあった。
格子戸の影、軒先から滴るしずく、薄暗い奥に延びる通路。

(ここ……知っている。
え、なんで?
そんなわけないよね……)

思わず足が止まり、呼吸が浅くなる。
ありえないはずの光景が、現実として目の前にある。
心臓が強く脈打ち、手のひらに汗がにじんだ。

木戸を押して中へ入ると、静けさに包まれた空間が広がった。
庭の隅には丸い石灯籠があり、朝の光を受けて淡く輝き、満月を思わせた。
その象徴を目にした途端、背筋が微かに震えた。

挿絵4
止水の中庭。灯籠が満月用に光、池の水面に映っている
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「お待ちしてました。
奈緒美はんですね。
ゆうちゃんから聞いてまっせ」

奥から現れたのは、黒の装束に身を包んだ男性――高埜木魂だった。
肩まで流れる銀白の髪が、障子越しの光を受けて淡く輝く。
鋭さを宿した眼差しは、一瞬で相手の奥底を見透かすようだったが、不思議な温かさも帯びていた。
体は決して細くはない。厚みを誇示するような逞しさではないが、しなやかに鍛えられた芯の強さが漂っている。
立ち姿そのものが凛として、空気を制する気配を放っていた。

挿絵5
高埜木魂が静かに現れる
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「……高埜さん」

名前を口にしたとたん、胸の奥で既視感が強烈に波立った。
目の前に立つ人物が現実なのか幻なのか、一瞬わからなくなる。

彼は軽く会釈し、静かに座敷へと招いた。

「どうぞ。
よう来はったな」

奈緒美は施術室に通された。
室内は白檀の香りが満ち、静謐な空気が流れていた。
障子越しの光が柔らかく広がり、木の床に淡い影を落とす。
きちんと整備された和室に、見たこともないような未来的な施術台が置かれている。
奈緒美はその光景に少し驚いたが、「香」が奈緒美の心を閑かにしてくれていた。

挿絵6
高埜木魂が特別の衣装で、施術代に横になった直美の額に触れる。
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「少し、触れさせてもらいましょ」

高埜木魂がそっと手を伸ばす。
指先が奈緒美の頬に触れた瞬間、胸の奥に光が差し込むような感覚が走った。

驚くほど柔らかく温かい手だった。
だが、その温もりはただ肌をなぞるのではない。
触れられた瞬間、体の奥底を探られているような感覚が広がっていく。
心臓の鼓動、呼吸の浅さ、精神の翳りまで――すべてを読み取られている気がした。

音が遠のき、視界の光が揺れる。
白檀の香りがいっそう強まり、内側に染み込んでくるようだった。
身体の奥で固まっていたものが、音もなく解けていく。
息が震え、視界が滲んだ。

「奈緒美はん、かなりお疲れさんどすな。
肌の状態も、お体も、どっちも限界に近い感じですわ」

その言葉は叱責でも慰めでもなかった。
ただ事実を静かに告げるだけ。
けれど胸の奥に真っ直ぐ届き、奈緒美の目から涙が一筋、頬を伝った。

(私……こんなに疲れていたんだ)

気づかなかった自分の消耗の深さを、ようやく実感した。

やがて手が離れる。
奈緒美は呼吸を整えようと胸に手を当てた。
心のざわめきは不思議と静まり、代わりに軽さが広がっていた。

高埜木魂は棚から包みを取り出した。
中に入っていたのもの、ひとつはアルミのボトルで、中には細かな粉末が入ったアルミパック。
もうひとつはガラスのジャーに納められた特別なクリームだった。

挿絵7
アルミ缶とクリームのジャー、背景は止水の和風施術室
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「これ、ちょっと面白いもんですわ。
サプリの原料としても使えるんやけど……」

短くそう告げて、粉末を渡す。
さらにクリームを手に取り、柔らかい笑みを浮かべた。

「それと、このクリーム。
特別なもんです。
よかったら試してみておくれやす」

奈緒美は驚きながらも、その眼差しの温かさに押されて受け取った。
礼を言おうと口を開いたが、声にならなかった。
言葉を探す間もなく、高埜木魂はくるりと背を向け、無言で歩き出した。

その背中はしなやかで、揺るぎない凛とした気配を放っていた。
人ならざる静けさと、人の温かさが同居している。

挿絵8
背を向けて去る高埜木魂
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「……また会いたい」

言葉は心の奥から自然にこぼれた。

庭を抜けると、空は透き通るように青く、白檀の香りがまだ風に混じっていた。
石畳を踏む足取りは、来たときよりもわずかに軽かった。