ヴィウの囁きと美しき挑戦。

シーズン1 始まりのささやき

エピソード9〈発酵の証明〉

挿絵1
奈緒美が涙ながらに高埜木魂と電話で話す
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「ほぉ……」

受話口から洩れた一言に、奈緒美の目から涙がこぼれた。
叱責でも驚きでもない。ただ静かな受け止め。
その響きに、背筋が自然と伸びる。

「そうなるかもしれへんなぁ、とは思てました」

その声を聞いた瞬間、胸の奥にじんわりと熱が広がり、息が震えた。

挿絵2
高埜木魂が電話に出る
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「粉はな、まだこっちに少ぉし残っとります。
今夜はちょうど満月やし、うちらで発酵させて、すぐ送りますわ」

奈緒美は両手でスマホを握りしめ、声を殺して頷いた。

「気ぃ揉ませてしもて、堪忍な」

穏やかな一言に、張り詰めていた心が解けていく。

「……お願いします」

震える声を絞り出すと、再び涙が頬を伝った。

社内でスケジュールを確認すると、宅配便では到底間に合わないことが判明した。
必ず翌朝に原料が東京に届かなければならない。

奈緒美は祐輔を呼び、静かに告げた。

「祐輔くん、京都まで行って、発酵液を受け取ってきて。
私の方から高埜さんには連絡しておくから」

「わかりました!」

二つ返事。迷いはなかった。

挿絵3
Bellasufidaの車、祐輔が京都へ走る
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夜、祐輔は車で東京を発った。
街の灯が遠ざかり、赤いテールランプと街灯のオレンジだけが闇を切り裂いた。
眠気も疲労も押し込み、ハンドルを握り続ける。

夜明け前、京都。
ラボの扉を開けて出迎えたのは高埜木魂ではなく、スタッフだった。
無言で頷き、台車に乗せた恒温ボックスを運び出してきた。

「満月の発酵が終わったばかりです」

祐輔は何度も頭を下げ、胸に抱えて再び車に乗り込んだ。

挿絵4
祐輔が東京に戻り、荷物を運ぶ
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昼前、東京。
玄関ホールに入った祐輔を、仲間たちの視線が迎えた。

「持ってきました!」

声に疲労は滲んでいたが、その奥には確かな熱があった。

息つく間もなく、研究室で測定が始まる。
紙がプリンタから吐き出され、研究員が目を見開いた。

「……これは……!」

モニターには、桁外れの数値。
ゼロではない。限界を超えるほどの高い値。

挿絵5
検査が驚きの結果
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「こんなデータ、見たことがない……」

「満月の夜に仕込んだだけで、ここまで……」

嘲笑していた研究員も息を呑み、やがて深く頭を下げた。

「……すみません。私が間違っていました」

奈緒美は静かに微笑んだ。

「大事なのは、これからよ。
一緒に間に合わせましょう」

研究室はそのまま作業場に変わった。
発酵液をベースに最終フォーミュラを調整し、スポイト容器に充填する。
ラベルを貼り、能書をまとめる。
誰もが無言で動き続け、時計は深夜を回った。

研究室で測定結果を確認した直後に、奈緒美は展示会場へ移動した。
すぐに現場でスタッフと打ち合わせだ。

奈緒美は、ブース全体を見渡しながら口を開いた。

「これだけじゃ全然弱いわね……」

奈緒美は心に刻んだ巨木の姿を思い浮かべていた。

「やっぱりブースの中央に、実物大の大きなオリーブの木が欲しいわね」

一瞬の沈黙。
チーフデザイナーが首を振る。

「でも……実物大のオリーブを置くって、そりゃすごいアイキャッチになるし、シンボリックで他にはできないことだと思いますが……
明日までにって、今からじゃ絶対間に合わないっす」

「ふう…、それもそうね。
じゃ、一体どうすれば……?」

空気が沈みかけたその時、か細い声が背後から響いた。

「あ、あの……
実は、私、もう発注してます……」

挿絵6
新人デザイナーユキの登場
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新人の社内デザイナーの岡村ユキが、か細い声で呟くように言った。
全員の視線が彼女に集まった。

「なんて?言った?」

「ご、ごめんなさい。
わたし、早とちりして、もう決まったことだと思って」

「あの……。
夏目チーフが、オリーブの木が絶対いいって、前におっしゃったから、もう決定事項かと思って……」

全員、固まった……。

奈緒美が歩み出て、やわらかく言った。

「岡村さん。
普通なら始末書ものよ?」

ユキは顔を真っ青にし、さらにうつむいた。

「でも――今回は感謝よ。
ありがとう!」

空気が一気にほどけ、笑いが起きた。

「じゃあ、本当に木が立つんだ!」

「間に合うぞ!」

展示会場の立て込みは二日目。照明が吊られ、壁が組み上がり、スタッフが慌ただしく動き回っている。
奈緒美は歩き回りながら、新製品のサンプル、配布用ツール、グラフィック、ブース装飾や備品を一つひとつ確認し、細かく修正を指示した。

そして足は自然と、ライバル会社のブースへ向かっていた。
その一角は、全面を黒いシートで覆われ、内部は一切見えない。
既に準備万端で、明日の発表を待つばかり。

挿絵7
ライバル会社のブースが黒シーツで覆われる
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展示会場に似つかわしくない、異様な形の黒い幕を見た瞬間、二度の挫折が脳裏によみがえった。
不気味な沈黙の中、シートの向こうから湧き上がるようなエネルギーを感じる。
胸の奥に、ざらりとした不安が広がった。

(何が仕込まれているの……?)

一歩後ずさるようにして、その場を離れた。

その夕刻。会場に巨大な荷物が届いた。
作業員たちが梱包をほどいていく。

「例のオリーブの木、届いたみたいですよ!」

スタッフの声に、「Bellasfida」のデザインチームが一斉に振り向く。

「お、行こ行こ」

駆け寄ったメンバーの目に飛び込んできたのは、想像以上のサイズ。

「でかっ!」

「むっちゃ高そう……」

誰かがぽつりとつぶやく。

「おい、ユキ、見積もりいくらだった?」

と言いながら、チーフデザイナーが眉をひそめる。

「えっ?……見積もりって?」

ユキは真っ赤になり、目を泳がせた。

「おいおい……」

全員が一斉にため息混じりの笑いを漏らす。

奈緒美が一歩前に出て、静かに言った。

「呆れた。
でも、まぁ今回だけはいいわ。
私が部長に言って予算もらうから」

場の空気がふっと和らぎ、笑いと安堵が入り混じった。
巨大なオリーブの木が、ブースの中央に立ち上がるのを見守りながら、チームの士気は一気に高まっていった。

夜遅く、奈緒美は部長室を訪ねた。

「数値は証明されました。
展示会には間に合います」

平木は椅子にもたれ、静かに言った。

「……よくやったな」

深夜のオフィス。
研究室もデザイン室も、灯りはまだ消えない。
スポイト容器を並べる手、能書を折る手、スライドを直す手。
全員が黙々と動き続けていた。

窓の外に満月の残光が漂っている。
奈緒美は立ち止まり、静かに目を閉じた。

挿絵9
奈緒美、クリームを抱え感謝と決意
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(自然のリズムが力を与えてくれた。
この光を必ず形にする)

展示会は、もう目の前だった。