ヴィウの囁きと美しき挑戦。
シーズン1 始まりのささやき
エピソード9〈発酵の証明〉

「ほぉ……」
受話口から洩れた一言に、奈緒美の目から涙がこぼれた。
叱責でも驚きでもない。ただ静かな受け止め。
その響きに、背筋が自然と伸びる。
「そうなるかもしれへんなぁ、とは思てました」
その声を聞いた瞬間、胸の奥にじんわりと熱が広がり、息が震えた。

「粉はな、まだこっちに少ぉし残っとります。
今夜はちょうど満月やし、うちらで発酵させて、すぐ送りますわ」
奈緒美は両手でスマホを握りしめ、声を殺して頷いた。
「気ぃ揉ませてしもて、堪忍な」
穏やかな一言に、張り詰めていた心が解けていく。
「……お願いします」
震える声を絞り出すと、再び涙が頬を伝った。
*
社内でスケジュールを確認すると、宅配便では到底間に合わないことが判明した。
必ず翌朝に原料が東京に届かなければならない。
奈緒美は祐輔を呼び、静かに告げた。
「祐輔くん、京都まで行って、発酵液を受け取ってきて。
私の方から高埜さんには連絡しておくから」
「わかりました!」
二つ返事。迷いはなかった。

夜、祐輔は車で東京を発った。
街の灯が遠ざかり、赤いテールランプと街灯のオレンジだけが闇を切り裂いた。
眠気も疲労も押し込み、ハンドルを握り続ける。
夜明け前、京都。
ラボの扉を開けて出迎えたのは高埜木魂ではなく、スタッフだった。
無言で頷き、台車に乗せた恒温ボックスを運び出してきた。
「満月の発酵が終わったばかりです」
祐輔は何度も頭を下げ、胸に抱えて再び車に乗り込んだ。
*

昼前、東京。
玄関ホールに入った祐輔を、仲間たちの視線が迎えた。
「持ってきました!」
声に疲労は滲んでいたが、その奥には確かな熱があった。
息つく間もなく、研究室で測定が始まる。
紙がプリンタから吐き出され、研究員が目を見開いた。
「……これは……!」
モニターには、桁外れの数値。
ゼロではない。限界を超えるほどの高い値。

「こんなデータ、見たことがない……」
「満月の夜に仕込んだだけで、ここまで……」
嘲笑していた研究員も息を呑み、やがて深く頭を下げた。
「……すみません。私が間違っていました」
奈緒美は静かに微笑んだ。
「大事なのは、これからよ。
一緒に間に合わせましょう」
研究室はそのまま作業場に変わった。
発酵液をベースに最終フォーミュラを調整し、スポイト容器に充填する。
ラベルを貼り、能書をまとめる。
誰もが無言で動き続け、時計は深夜を回った。
*
研究室で測定結果を確認した直後に、奈緒美は展示会場へ移動した。
すぐに現場でスタッフと打ち合わせだ。
奈緒美は、ブース全体を見渡しながら口を開いた。
「これだけじゃ全然弱いわね……」
奈緒美は心に刻んだ巨木の姿を思い浮かべていた。
「やっぱりブースの中央に、実物大の大きなオリーブの木が欲しいわね」
一瞬の沈黙。
チーフデザイナーが首を振る。
「でも……実物大のオリーブを置くって、そりゃすごいアイキャッチになるし、シンボリックで他にはできないことだと思いますが……
明日までにって、今からじゃ絶対間に合わないっす」
「ふう…、それもそうね。
じゃ、一体どうすれば……?」
空気が沈みかけたその時、か細い声が背後から響いた。
「あ、あの……
実は、私、もう発注してます……」

新人の社内デザイナーの岡村ユキが、か細い声で呟くように言った。
全員の視線が彼女に集まった。
「なんて?言った?」
「ご、ごめんなさい。
わたし、早とちりして、もう決まったことだと思って」
「あの……。
夏目チーフが、オリーブの木が絶対いいって、前におっしゃったから、もう決定事項かと思って……」
全員、固まった……。
奈緒美が歩み出て、やわらかく言った。
「岡村さん。
普通なら始末書ものよ?」
ユキは顔を真っ青にし、さらにうつむいた。
「でも――今回は感謝よ。
ありがとう!」
空気が一気にほどけ、笑いが起きた。
「じゃあ、本当に木が立つんだ!」
「間に合うぞ!」
展示会場の立て込みは二日目。照明が吊られ、壁が組み上がり、スタッフが慌ただしく動き回っている。
奈緒美は歩き回りながら、新製品のサンプル、配布用ツール、グラフィック、ブース装飾や備品を一つひとつ確認し、細かく修正を指示した。
そして足は自然と、ライバル会社のブースへ向かっていた。
その一角は、全面を黒いシートで覆われ、内部は一切見えない。
既に準備万端で、明日の発表を待つばかり。

展示会場に似つかわしくない、異様な形の黒い幕を見た瞬間、二度の挫折が脳裏によみがえった。
不気味な沈黙の中、シートの向こうから湧き上がるようなエネルギーを感じる。
胸の奥に、ざらりとした不安が広がった。
(何が仕込まれているの……?)
一歩後ずさるようにして、その場を離れた。
*
その夕刻。会場に巨大な荷物が届いた。
作業員たちが梱包をほどいていく。
「例のオリーブの木、届いたみたいですよ!」
スタッフの声に、「Bellasfida」のデザインチームが一斉に振り向く。
「お、行こ行こ」
駆け寄ったメンバーの目に飛び込んできたのは、想像以上のサイズ。

「でかっ!」
「むっちゃ高そう……」
誰かがぽつりとつぶやく。
「おい、ユキ、見積もりいくらだった?」
と言いながら、チーフデザイナーが眉をひそめる。
「えっ?……見積もりって?」
ユキは真っ赤になり、目を泳がせた。
「おいおい……」
全員が一斉にため息混じりの笑いを漏らす。
奈緒美が一歩前に出て、静かに言った。
「呆れた。
でも、まぁ今回だけはいいわ。
私が部長に言って予算もらうから」
場の空気がふっと和らぎ、笑いと安堵が入り混じった。
巨大なオリーブの木が、ブースの中央に立ち上がるのを見守りながら、チームの士気は一気に高まっていった。
*
夜遅く、奈緒美は部長室を訪ねた。
「数値は証明されました。
展示会には間に合います」
平木は椅子にもたれ、静かに言った。
「……よくやったな」
*
深夜のオフィス。
研究室もデザイン室も、灯りはまだ消えない。
スポイト容器を並べる手、能書を折る手、スライドを直す手。
全員が黙々と動き続けていた。
窓の外に満月の残光が漂っている。
奈緒美は立ち止まり、静かに目を閉じた。

(自然のリズムが力を与えてくれた。
この光を必ず形にする)
展示会は、もう目の前だった。

