ヴィウの囁きと美しき挑戦。
シーズン1 始まりのささやき
エピソード10〈勝負の日の前夜〉

展示会の前日、オフィスの灯りは深夜になっても消えなかった。
研究室では白衣の背中が無言で並び、スポイト容器に発酵液を落とし込み、能書を折り続けている。
デザイン室ではスライドを直すキーボードの音と、ラベルを貼る指先の擦れる音だけが響いていた。
奈緒美は、その光景を一つひとつ目に焼きつけた。
(私もここに残りたい)
そう思った。けれどリーダーは、必ずしも最前線に立ち続けることだけが役割ではない。
明日の朝、冷静な顔で会場に立つ。それが彼女に託された最後の責任だった。
深夜、奈緒美は仲間に軽く会釈し、ビルを後にした。

タクシーの窓越しに流れる街灯、赤と緑の信号のリズム、眠らぬ街のコンビニの光。
それらすべてが、明日という一点に向かって自分を押し流しているようだった。
*
玄関を開けると、家の中は沈黙に包まれていた。
冷蔵庫の低い唸り、壁掛け時計の秒針の音。
誰も起きていない静けさが、逆に胸を締めつける。
リビングのテーブルに鞄を置き、資料を取り出した。
(今夜は、全部最初から精査し直そう)
そう心を決めてペンを取ったその時、スマホが震えた。

画面には通知が浮かんでいる。
――ヴィウの囁きに耳を傾けて。
キレイは、あなたの中にある。
数日間の慌ただしさで、ほとんど見返すこともできなかったアプリのメッセージ。
けれど今、その言葉が胸に響いた。
「囁きに耳を傾ける……」
確かに今、自分に必要なことかもしれない。
思索を巡らせようとした瞬間、再びスマホが震えた。
「えっ、また?」
少し苛立ちながら画面を見ると、それはゆう子からのLINEだった。
――奈緒美、大丈夫?
明日だよね
奈緒美は目を瞬いた。
胸の奥に、温かいものが広がる。
考えるより先に、通話ボタンを押していた。
「……もしもし?」
「奈緒美!
こんな時間に出るとは思わなかった。
寝てるかと思って」

「眠れるわけ、ないでしょう」
二人とも、同時に笑った。
「ほんとに大丈夫?
京都に行ったって聞いたきり、何も連絡ないし……」
「ごめん。
バタバタしすぎて報告もできなかった。
高埜さんのラボで発酵させてもらって、祐輔くんが取りに行って……やっと数値が出たの。
すごかった」
「……よかった」
電話口の向こうで、ゆう子が小さく息をついた。
奈緒美は、ふと心がほどけるのを感じた。
仲間の前では言えなかった弱音を、親友の前では素直に言える。
「でもね、怖いの。
明日、もし失敗したら……って。
二度も負けてるから。
黒いシートに覆われたライバルのブースが、頭から離れない」
「……奈緒美」
ゆう子の声は落ち着いていた。
「何度でも立ち上がってきたじゃない。
あなたはそういう人。
明日だって、奈緒美らしく立てば、それでいい」
胸の奥に、熱がにじむ。
「ありがとう。
やっぱり、声聞けてよかった」
「明日、見に行くから。
絶対、勝って」
「うん。
待ってて」
通話が切れると、リビングの静けさが戻ってきた。
けれど先ほどとは違う。心の奥に、確かな灯がともっていた。

奈緒美は深呼吸をして、テーブルの上のジャーに手を伸ばした。
蓋をひねると、白檀の香りが静かに広がる。
指先にすくい、頬にのせる。
ひんやりとした感触が肌に馴染むと、不安の波が静かに退いていった。
目を閉じれば、背後に高埜木魂の気配が立っている。
声を聞いたわけではない。ただ、確かに「そこにいる」と思えた。
――「大丈夫?」
耳元で囁くような声がした気がして、奈緒美は思わず振り返った。
そこに立っていたのは、高埜木魂……ではなかった。
健一だった。

「奈緒美?
もう遅いけど、大丈夫か?」
一瞬の錯覚に胸がざわつく。
現実の声が、さっきまで思い描いていた存在と重なったのだ。
「うん……大丈夫。
明日、発表だから……緊張してて。
でも、もう大丈夫」
奈緒美は笑みを浮かべながらも、目は合わせられなかった。
健一はそっと肩を抱いた。
奈緒美は感謝しながらも、心の奥の嵐は止まらなかった。

ベッドに入っても眠れない。
時計の針がひとつひとつ進む音だけが部屋を満たす。
目を閉じれば、ライバルの黒いシート、過去の敗北、明日を迎える恐怖が押し寄せる。
やがて、窓の外が薄い朱を帯び始めた。
奈緒美は静かにベッドを抜け出し、テラスへ出た。
冷たい風が頬を撫で、東の空が少しずつ明けていく。
街路樹の葉が風に揺れ、遠くのコンビニの灯りが淡く残っている。
世界が眠っている間に、空だけが確かに新しい日を告げていた。
「今日ですべてが決まる」
握りしめた拳に爪が食い込む。
その痛みが、迷いを振り払ってくれる。
夜明けの光は、満月の余韻を帯びながら静かに差し込んでいた。
朝の冷たい風に当たって、少し落ち着きを取り戻した奈緒美は、
もうすべてをかける覚悟ができていた。


