ヴィウの囁きと美しき挑戦。

シーズン1 始まりのささやき

エピソード10〈勝負の日の前夜〉

挿絵1
深夜まで頑張っている、オフィスのスタッフたち
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展示会の前日、オフィスの灯りは深夜になっても消えなかった。
研究室では白衣の背中が無言で並び、スポイト容器に発酵液を落とし込み、能書を折り続けている。
デザイン室ではスライドを直すキーボードの音と、ラベルを貼る指先の擦れる音だけが響いていた。

奈緒美は、その光景を一つひとつ目に焼きつけた。

(私もここに残りたい)

そう思った。けれどリーダーは、必ずしも最前線に立ち続けることだけが役割ではない。
明日の朝、冷静な顔で会場に立つ。それが彼女に託された最後の責任だった。

深夜、奈緒美は仲間に軽く会釈し、ビルを後にした。

挿絵2
奈緒美がタクシーで自宅へ帰る途中
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タクシーの窓越しに流れる街灯、赤と緑の信号のリズム、眠らぬ街のコンビニの光。
それらすべてが、明日という一点に向かって自分を押し流しているようだった。

玄関を開けると、家の中は沈黙に包まれていた。
冷蔵庫の低い唸り、壁掛け時計の秒針の音。
誰も起きていない静けさが、逆に胸を締めつける。

リビングのテーブルに鞄を置き、資料を取り出した。

(今夜は、全部最初から精査し直そう)

そう心を決めてペンを取ったその時、スマホが震えた。

挿絵3
奈緒美のデスクに置いてあるスマホにメッセージが入る
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画面には通知が浮かんでいる。

――ヴィウの囁きに耳を傾けて。
  キレイは、あなたの中にある。

数日間の慌ただしさで、ほとんど見返すこともできなかったアプリのメッセージ。
けれど今、その言葉が胸に響いた。

「囁きに耳を傾ける……」

確かに今、自分に必要なことかもしれない。

思索を巡らせようとした瞬間、再びスマホが震えた。

「えっ、また?」

少し苛立ちながら画面を見ると、それはゆう子からのLINEだった。

――奈緒美、大丈夫?
  明日だよね

奈緒美は目を瞬いた。
胸の奥に、温かいものが広がる。
考えるより先に、通話ボタンを押していた。

「……もしもし?」

「奈緒美!
こんな時間に出るとは思わなかった。
寝てるかと思って」

挿絵4
ゆう子からの電話
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「眠れるわけ、ないでしょう」

二人とも、同時に笑った。

「ほんとに大丈夫?
京都に行ったって聞いたきり、何も連絡ないし……」

「ごめん。
バタバタしすぎて報告もできなかった。
高埜さんのラボで発酵させてもらって、祐輔くんが取りに行って……やっと数値が出たの。
すごかった」

「……よかった」

電話口の向こうで、ゆう子が小さく息をついた。

奈緒美は、ふと心がほどけるのを感じた。
仲間の前では言えなかった弱音を、親友の前では素直に言える。

「でもね、怖いの。
明日、もし失敗したら……って。
二度も負けてるから。
黒いシートに覆われたライバルのブースが、頭から離れない」

「……奈緒美」

ゆう子の声は落ち着いていた。

「何度でも立ち上がってきたじゃない。
あなたはそういう人。
明日だって、奈緒美らしく立てば、それでいい」

胸の奥に、熱がにじむ。

「ありがとう。
やっぱり、声聞けてよかった」

「明日、見に行くから。
絶対、勝って」

「うん。
待ってて」

通話が切れると、リビングの静けさが戻ってきた。
けれど先ほどとは違う。心の奥に、確かな灯がともっていた。

挿絵5
ソファに座ってクリームのジャーを開ける奈緒美
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奈緒美は深呼吸をして、テーブルの上のジャーに手を伸ばした。
蓋をひねると、白檀の香りが静かに広がる。
指先にすくい、頬にのせる。
ひんやりとした感触が肌に馴染むと、不安の波が静かに退いていった。
目を閉じれば、背後に高埜木魂の気配が立っている。
声を聞いたわけではない。ただ、確かに「そこにいる」と思えた。

――「大丈夫?」

耳元で囁くような声がした気がして、奈緒美は思わず振り返った。

そこに立っていたのは、高埜木魂……ではなかった。
健一だった。

挿絵6
奈緒美の後ろに立つ健一、高埜木魂がオーバーラップ
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「奈緒美?
もう遅いけど、大丈夫か?」

一瞬の錯覚に胸がざわつく。
現実の声が、さっきまで思い描いていた存在と重なったのだ。

「うん……大丈夫。
明日、発表だから……緊張してて。
でも、もう大丈夫」

奈緒美は笑みを浮かべながらも、目は合わせられなかった。
健一はそっと肩を抱いた。
奈緒美は感謝しながらも、心の奥の嵐は止まらなかった。

挿絵7
健一が奈緒美を元気づける
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ベッドに入っても眠れない。
時計の針がひとつひとつ進む音だけが部屋を満たす。
目を閉じれば、ライバルの黒いシート、過去の敗北、明日を迎える恐怖が押し寄せる。

やがて、窓の外が薄い朱を帯び始めた。
奈緒美は静かにベッドを抜け出し、テラスへ出た。
冷たい風が頬を撫で、東の空が少しずつ明けていく。
街路樹の葉が風に揺れ、遠くのコンビニの灯りが淡く残っている。
世界が眠っている間に、空だけが確かに新しい日を告げていた。

「今日ですべてが決まる」

握りしめた拳に爪が食い込む。
その痛みが、迷いを振り払ってくれる。

夜明けの光は、満月の余韻を帯びながら静かに差し込んでいた。
朝の冷たい風に当たって、少し落ち着きを取り戻した奈緒美は、
もうすべてをかける覚悟ができていた。

挿絵8
奈緒美が明け方のテラスで覚悟を決める
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