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止まれない夜
ロレーナは、部屋の小さな鏡の前に立っていた。
蛍光灯の光が顔をそのまま映す。隠しきれない凹凸と、少し荒れた頬。指先でファンデーションを重ね、薄く、もう一度重ねる。鏡から少し離れて全体を見るが、まだ足りない気がしてコンシーラーを足した。
「今日、なんかダメだな」
誰に言うでもなく呟き、強い色の口紅を引く。それでようやく、いつもの自分に近づいた気がする。
香水をひと吹き、それからもうひと吹き。甘い匂いが部屋に広がる。匂いが強ければ強いほど、自分がここにいる理由を保てる気がした。

しばらく鏡を見つめる。整っているはずなのに、どこかが追いついていない。
ベッドの端に腰を下ろし、携帯を手に取る。画面を見つめながら指を滑らせ、止まり、戻る。通知がひとつ、またひとつと増えるが、今は開かない。送金アプリの残高を確認し、また閉じる。胸の奥に、小さな焦りが溜まっていく。

止まれない、と思う。
発信ボタンに指を置き、少しだけ迷ってから押した。
「ねえ、ガビ。ちょっと話せる」
⸻

ガビは、少し遅れて現れた。
「ごめん、待った?」
「ううん」
ロレーナは軽く笑う。笑うが、目元の力が抜けている。

「日本の冬、乾燥すごいでしょ」
ガビは肩をすくめた。
「そうでもない」
「最初の年、あたし顔ガサガサになったよ。油断するとすぐやられる」
ガビは少し考える。
フィリピンでは、自分の肌を意識したことはなかった。汗をかき、洗い、乾く。それだけだった。最初は東京を出るときにもらった赤い石鹸を、そのまま使っていただけだった。けれど京都の冬は違う。夜になると頬がざらつき、引きつる感じが残る。
「冬は乾燥するから、顔洗ったらこれつけてね」
奥さんはそう言って、小さな瓶を渡した。
最初は石鹸だけで済ませていたが、乾燥が続くうちに、自然とその蓋を開けるようになった。ただ、それだけのことだった。
「そんなでもない」
ロレーナは、じっとガビの顔を見る。
「へえ」
小さく笑う。
「なんかさ、顔、楽そうだよね」

ガビは一瞬、言葉を探す。
「……別に、なんもしてない」
言いかけて、やめる。
「普通や」
ロレーナはそれ以上追わない。ただ、もう一度だけガビの頬を見る。
少し間が空いたあと、ロレーナは言った。
「ママがね、昨日から入院しててさ」
笑いながら言うが、声が少し速い。
「給料日まだなんだよね。ガビ、ごめん。少し貸して」
ガビは、彼女の目を見た。
嘘だと思った。
自分のための嘘ではないことも、分かっていた。
「そう、いくら」
ロレーナはほんの一瞬目を伏せ、金額を告げる。ガビは何も言わずに金を渡した。

「……ごめん」
その声は先ほどより低い。
しばらく沈黙が続いた。
「ガビ、日本はどう。うまくやってる」
「なんで」
「なんかさ。最初に会ったときより、変わった気がする」
ガビは答えない。
ロレーナは笑うが、その笑いは長く続かない。
「あたしはさ、変わらないんだよね」
少し間を置いて、
「変われない……」
頬に触れた指が止まる。

「最近、肌も荒れてるし。匂いもいっぱいつけないと、ね。ここ、負けるとすぐ消えるから」
視線を落としたまま、続ける。
「あたしが止まったら……向こうが止まるの」
言葉が少し途切れる。
「仕送り止めたら、あっちも回らなくなる。家も、弟も、みんな、あたしが続けるって思ってる」
「これしかないの」
声は低く、静かだった。
ガビは彼女の顔を見る。荒れた肌、強い香り、その奥に沈んだ光。
言葉を探すが、うまく出てこない。
ガビは、小さく呼ぶ。
「……ロレーナ」
そして言った。
「もう、ちゃんとやってる」
それだけだった。
ロレーナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。そのまま目から涙がこぼれた。強い香りが、わずかに薄まった気がした。

外に出ると、京都の夜は冷たかった。冷たいのに、刺さらない。
止まれない人がいる。
止まれる場所がある。
どちらも、間違いではない。

ガビは息を吸い、ゆっくり吐いた。
夜は、深くなる。

