BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第7話

止まれない夜

ロレーナは、部屋の小さな鏡の前に立っていた。

蛍光灯の光が顔をそのまま映す。隠しきれない凹凸と、少し荒れた頬。指先でファンデーションを重ね、薄く、もう一度重ねる。鏡から少し離れて全体を見るが、まだ足りない気がしてコンシーラーを足した。

「今日、なんかダメだな」

誰に言うでもなく呟き、強い色の口紅を引く。それでようやく、いつもの自分に近づいた気がする。

香水をひと吹き、それからもうひと吹き。甘い匂いが部屋に広がる。匂いが強ければ強いほど、自分がここにいる理由を保てる気がした。

ベージュの服を着たロレーナが、肩の近くで香水の瓶を持つ。細かな霧が広がり、背後に衣類、手前に化粧品が並ぶ。

しばらく鏡を見つめる。整っているはずなのに、どこかが追いついていない。

ベッドの端に腰を下ろし、携帯を手に取る。画面を見つめながら指を滑らせ、止まり、戻る。通知がひとつ、またひとつと増えるが、今は開かない。送金アプリの残高を確認し、また閉じる。胸の奥に、小さな焦りが溜まっていく。

ベッドの上で脚を組み、両手に持った携帯へ目を落とすロレーナ。ベージュの上着と灰色のパンツを着ており、背後にカーテンがある。

止まれない、と思う。

発信ボタンに指を置き、少しだけ迷ってから押した。

「ねえ、ガビ。ちょっと話せる」

⸻

黒いフード付きの服と上着を着たガビが、街灯のともる木造の家並みの夜道に立っている。濡れた路面に灯りが映る。

ガビは、少し遅れて現れた。

「ごめん、待った?」

「ううん」

ロレーナは軽く笑う。笑うが、目元の力が抜けている。

木のテーブル越しに、手前のガビへ目を向けるロレーナ。テーブルには白いカップと水のグラスが置かれている。

「日本の冬、乾燥すごいでしょ」

ガビは肩をすくめた。

「そうでもない」

「最初の年、あたし顔ガサガサになったよ。油断するとすぐやられる」

ガビは少し考える。

フィリピンでは、自分の肌を意識したことはなかった。汗をかき、洗い、乾く。それだけだった。最初は東京を出るときにもらった赤い石鹸を、そのまま使っていただけだった。けれど京都の冬は違う。夜になると頬がざらつき、引きつる感じが残る。

「冬は乾燥するから、顔洗ったらこれつけてね」

奥さんはそう言って、小さな瓶を渡した。

最初は石鹸だけで済ませていたが、乾燥が続くうちに、自然とその蓋を開けるようになった。ただ、それだけのことだった。

「そんなでもない」

ロレーナは、じっとガビの顔を見る。

「へえ」

小さく笑う。

「なんかさ、顔、楽そうだよね」

黒いフード付きの服と上着を着たガビの横顔。室内の淡い壁を背に、斜め前へ視線を向けている。

ガビは一瞬、言葉を探す。

「……別に、なんもしてない」

言いかけて、やめる。

「普通や」

ロレーナはそれ以上追わない。ただ、もう一度だけガビの頬を見る。

少し間が空いたあと、ロレーナは言った。

「ママがね、昨日から入院しててさ」

笑いながら言うが、声が少し速い。

「給料日まだなんだよね。ガビ、ごめん。少し貸して」

ガビは、彼女の目を見た。

嘘だと思った。

自分のための嘘ではないことも、分かっていた。

「そう、いくら」

ロレーナはほんの一瞬目を伏せ、金額を告げる。ガビは何も言わずに金を渡した。

木のテーブル越しに、白い紙の束を渡す黒い袖の手と、受け取るベージュの袖の手。手前に白いカップと水のグラスがある。

「……ごめん」

その声は先ほどより低い。

しばらく沈黙が続いた。

「ガビ、日本はどう。うまくやってる」

「なんで」

「なんかさ。最初に会ったときより、変わった気がする」

ガビは答えない。

ロレーナは笑うが、その笑いは長く続かない。

「あたしはさ、変わらないんだよね」

少し間を置いて、

「変われない……」

頬に触れた指が止まる。

街灯と窓の灯りに照らされた木造の家並み。人影のない濡れた石畳の道が、暗い空の下を奥へ続く。

「最近、肌も荒れてるし。匂いもいっぱいつけないと、ね。ここ、負けるとすぐ消えるから」

視線を落としたまま、続ける。

「あたしが止まったら……向こうが止まるの」

言葉が少し途切れる。

「仕送り止めたら、あっちも回らなくなる。家も、弟も、みんな、あたしが続けるって思ってる」

「これしかないの」

声は低く、静かだった。

ガビは彼女の顔を見る。荒れた肌、強い香り、その奥に沈んだ光。

言葉を探すが、うまく出てこない。

ガビは、小さく呼ぶ。

「……ロレーナ」

そして言った。

「もう、ちゃんとやってる」

それだけだった。

ロレーナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。そのまま目から涙がこぼれた。強い香りが、わずかに薄まった気がした。

ベージュの服を着たロレーナの顔の接写。頬に涙の跡があり、斜め横へ目を向けている。

外に出ると、京都の夜は冷たかった。冷たいのに、刺さらない。

止まれない人がいる。
止まれる場所がある。

どちらも、間違いではない。

黒い上着のガビを後ろから見た姿。街灯の下、濡れた石畳の夜道が木の塀と家並みの間を奥へ続いている。

ガビは息を吸い、ゆっくり吐いた。

夜は、深くなる。