BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第8話

円の外

朝の光は、夜よりも薄かった。障子越しの白が、部屋の中を静かに満たしている。

ガビは机の上に置いた小瓶を手に取る。いつもは、ただそこにあるだけのものだった。何かを期待して、じっくり見たことはない。

光の中で、液体がゆっくり揺れる。

前は、もう少し濁りがあったような気がした。思い込みかもしれない。それでも、今は澄んで見える。

故郷の海の色に、似ていた。

窓の前で、コルク栓と紙ラベルのついた小さなガラス瓶を手に持っている。瓶の青緑色の液体に光が透けている。

ロレーナの顔が、ふと浮かぶ。止まれない目。強い香り。あの夜の、言葉にならない重さ。

自分は、いま、どこに立っているのだろう。

京都に来て、何日も経つ。町を歩き、蕎麦を食べ、能を見た。けれど、どこか外側をなぞっている感覚だけが残っている。

そのとき、堂本の声が遠くから重なる。

――愛宕へ行ってみたらどうや。

理由は、まだ分からない。

けれど、朝の光の中で、その言葉だけがはっきりと残った。

*

両側に竹が茂る細い石畳の道。湿った石に光が映り、木漏れ日の差す奥へ緩やかに上っている。

竹林の参道は、緩やかに上へと続いていた。石畳は湿り気を帯び、踏みしめるたびに足裏へ冷たさが伝わる。町の音はすでに遠く、代わりに自分の呼吸だけが耳に残る。

愛宕は広い。堂も寺もいくつもある。ガビは、この日すでにいくつかの山門をくぐってきた。立ち止まり、空気を確かめ、違うと感じれば戻る。ここだと言える場所は、まだなかった。

竹林の奥へ続く道に入る。参道は細くなり、両脇の竹が近づく。光は上から落ちているのに、足元は暗い。

この道が正しいかどうかは分からない。ただ、引き返す理由もなかった。

歩くたびに、余計な考えがひとつずつ削られていく。
何を探しているのかという問いさえ、いまは少し遠い。
残っているのは、ただ「確かめたい」という感覚だけだった。

やがて山門が現れる。

黒い上着のガビが、湿った石畳を瓦屋根の山門へ向かう後ろ姿。道の両側に石垣と木々が続く。

くぐった瞬間、空気が変わった。

白檀の香りだった。

強くはない。けれど、迷いなく分かる。

母の匂いだ。

夜の部屋。灯りを落としたあと、紙の前に座る背中。深く息を吸い込んだときに胸の奥に残る、あの静かな香り。

思い出す、というより、戻る。

身体が先に知っている。

ここだ。

はっきりと、そう思った。

*

境内に足を踏み入れると、空気の層がさらに深くなる。冷たいのに刺さらず、静かなのに空ではない。白檀は単なる匂いではなく、長い時間の層として沈んでいる。

甘いが軽くない。乾いているが硬くもない。何度も焚かれ、何度も消え、何度も残ってきた匂いだった。

ガビは急がない。急ぐべきではないと、身体が理解している。

暗い木造の室内で、低い木の台に置かれた小さな香炉から細い煙が立ちのぼる。右の格子窓から淡い光が差している。

白檀は、何かを足すための香りではなかった。
むしろ、余分なものをひとつずつ静かに落としていく匂いだった。

落として、落として、
それでも消えないものがある。

それは強さではない。
静かな、優しさのようなものだった。

誰かがそこにいる、という気配。
見えないまま支えられている感覚。

ガビは、それを説明できなかった。
ただ、胸の奥に安堵が残った。

ポケットの中で、小瓶が指に触れる。取り出すつもりはなかった。

白檀の香りが濃くなったところで、堂が現れた。扉は半分ほど開いている。

中は薄暗く、外の光が床に細い帯を落としていた。

坐している大きな影があった。

背筋がまっすぐで、肩幅が広い。その後ろ姿だけで、ボクシングジムで対峙したあの男だと分かる。
動いていない。その背に、呼吸だけが確かにある。

その呼吸は、周囲の空気よりも深い。
堂そのものが、その背に合わせて静まっているようだった。

薄暗い木造の堂の奥で、黒い服の大柄な男が背を向けて坐している。右の格子窓から板床へ光が入り、傍らに小さな香炉がある。

ガビは敷居をまたいだ。足音は出なかったはずだが、影はわずかに息を変えた。

白檀の香りは動かない。背を向けたまま、声だけが堂に落ちる。

「守はな、円の中にいることだ」

振り向かない。

「型に守られている状態だ。安心できる。守られている代わりに、外は見えない」

堂の空気は変わらない。

「破は、その円にヒビを入れることだ。外に出たつもりになる。だが多くは、ヒビの入った別の円に移るだけだ」

ガビは、その言葉を理解しきれないまま聞いている。円という形は浮かぶが、自分がどこにいるのかは曖昧だ。

黒い服を着た肩幅の広い男の、まっすぐ伸びた背中。木の床に脚を組んで坐り、左の香炉から細い煙がのぼっている。

「離は、その円の外に立つことだ。支えがなくなる。誰も守ってくれない」

声は低いまま続く。

「怖い。本当に一人になる」

一拍。

「だが、外に立って初めて、円そのものが見える」

沈黙が落ちる。

「その外に、もうひとつある」

振り向かないまま。

「游だ」

ガビは眉をわずかに寄せる。守も破も、まだ自分のものではない。離など想像もできない。ただ、“円の中にいる”という感覚だけが、妙に身体に残る。

背後で、砂利がわずかに鳴った。

「デイビッド」

声が静かに落ちる。

ガビが振り向くと、高埜木魂が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。足音も、気配も思い出せない。ただ、そこにいることが自然だった。

堂の入口に立つ高埜木魂。長い銀髪と黒い外套、暗い瞳で正面を向き、背後に木々と石灯籠が見える。

デイビッドの背中が、ほんのわずかに呼吸を変える。

高埜木魂は堂の奥を見据えたまま言う。

「おまはんは、ほんま無頼やな」

人を包み込むような、やわらかな京都訛りだった。

堂の入口で、黒いフード付きの服と上着のガビがこちらへ顔を向けている。奥の板床には、黒い服の大柄な男が背を向けて坐している。

デイビッドの肩がわずかに揺れる。坐をほどきながら、小さく笑う。それでも振り向かない。

白檀は動かない。

やがて、高埜木魂の視線が、ゆっくりとガビへ向く。

「海の色、よう来たな」

その言葉が落ちた瞬間、堂の空気が静かに引き締まった。