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円の外
朝の光は、夜よりも薄かった。障子越しの白が、部屋の中を静かに満たしている。
ガビは机の上に置いた小瓶を手に取る。いつもは、ただそこにあるだけのものだった。何かを期待して、じっくり見たことはない。
光の中で、液体がゆっくり揺れる。
前は、もう少し濁りがあったような気がした。思い込みかもしれない。それでも、今は澄んで見える。
故郷の海の色に、似ていた。

ロレーナの顔が、ふと浮かぶ。止まれない目。強い香り。あの夜の、言葉にならない重さ。
自分は、いま、どこに立っているのだろう。
京都に来て、何日も経つ。町を歩き、蕎麦を食べ、能を見た。けれど、どこか外側をなぞっている感覚だけが残っている。
そのとき、堂本の声が遠くから重なる。
――愛宕へ行ってみたらどうや。
理由は、まだ分からない。
けれど、朝の光の中で、その言葉だけがはっきりと残った。
*

竹林の参道は、緩やかに上へと続いていた。石畳は湿り気を帯び、踏みしめるたびに足裏へ冷たさが伝わる。町の音はすでに遠く、代わりに自分の呼吸だけが耳に残る。
愛宕は広い。堂も寺もいくつもある。ガビは、この日すでにいくつかの山門をくぐってきた。立ち止まり、空気を確かめ、違うと感じれば戻る。ここだと言える場所は、まだなかった。
竹林の奥へ続く道に入る。参道は細くなり、両脇の竹が近づく。光は上から落ちているのに、足元は暗い。
この道が正しいかどうかは分からない。ただ、引き返す理由もなかった。
歩くたびに、余計な考えがひとつずつ削られていく。
何を探しているのかという問いさえ、いまは少し遠い。
残っているのは、ただ「確かめたい」という感覚だけだった。
やがて山門が現れる。

くぐった瞬間、空気が変わった。
白檀の香りだった。
強くはない。けれど、迷いなく分かる。
母の匂いだ。
夜の部屋。灯りを落としたあと、紙の前に座る背中。深く息を吸い込んだときに胸の奥に残る、あの静かな香り。
思い出す、というより、戻る。
身体が先に知っている。
ここだ。
はっきりと、そう思った。
*
境内に足を踏み入れると、空気の層がさらに深くなる。冷たいのに刺さらず、静かなのに空ではない。白檀は単なる匂いではなく、長い時間の層として沈んでいる。
甘いが軽くない。乾いているが硬くもない。何度も焚かれ、何度も消え、何度も残ってきた匂いだった。
ガビは急がない。急ぐべきではないと、身体が理解している。

白檀は、何かを足すための香りではなかった。
むしろ、余分なものをひとつずつ静かに落としていく匂いだった。
落として、落として、
それでも消えないものがある。
それは強さではない。
静かな、優しさのようなものだった。
誰かがそこにいる、という気配。
見えないまま支えられている感覚。
ガビは、それを説明できなかった。
ただ、胸の奥に安堵が残った。
ポケットの中で、小瓶が指に触れる。取り出すつもりはなかった。
白檀の香りが濃くなったところで、堂が現れた。扉は半分ほど開いている。
中は薄暗く、外の光が床に細い帯を落としていた。
坐している大きな影があった。
背筋がまっすぐで、肩幅が広い。その後ろ姿だけで、ボクシングジムで対峙したあの男だと分かる。
動いていない。その背に、呼吸だけが確かにある。
その呼吸は、周囲の空気よりも深い。
堂そのものが、その背に合わせて静まっているようだった。

ガビは敷居をまたいだ。足音は出なかったはずだが、影はわずかに息を変えた。
白檀の香りは動かない。背を向けたまま、声だけが堂に落ちる。
「守はな、円の中にいることだ」
振り向かない。
「型に守られている状態だ。安心できる。守られている代わりに、外は見えない」
堂の空気は変わらない。
「破は、その円にヒビを入れることだ。外に出たつもりになる。だが多くは、ヒビの入った別の円に移るだけだ」
ガビは、その言葉を理解しきれないまま聞いている。円という形は浮かぶが、自分がどこにいるのかは曖昧だ。

「離は、その円の外に立つことだ。支えがなくなる。誰も守ってくれない」
声は低いまま続く。
「怖い。本当に一人になる」
一拍。
「だが、外に立って初めて、円そのものが見える」
沈黙が落ちる。
「その外に、もうひとつある」
振り向かないまま。
「游だ」
ガビは眉をわずかに寄せる。守も破も、まだ自分のものではない。離など想像もできない。ただ、“円の中にいる”という感覚だけが、妙に身体に残る。
背後で、砂利がわずかに鳴った。
「デイビッド」
声が静かに落ちる。
ガビが振り向くと、高埜木魂が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。足音も、気配も思い出せない。ただ、そこにいることが自然だった。

デイビッドの背中が、ほんのわずかに呼吸を変える。
高埜木魂は堂の奥を見据えたまま言う。
「おまはんは、ほんま無頼やな」
人を包み込むような、やわらかな京都訛りだった。

デイビッドの肩がわずかに揺れる。坐をほどきながら、小さく笑う。それでも振り向かない。
白檀は動かない。
やがて、高埜木魂の視線が、ゆっくりとガビへ向く。
「海の色、よう来たな」
その言葉が落ちた瞬間、堂の空気が静かに引き締まった。

