KTS1|Season 1

  • 第1話

    音になる前

    母が亡くなった日のことを、ガビは細かく覚えていない。病室の匂いと、窓から差し込んでいた光の角度だけが、いまも身体の奥に残っている。 その少し前、帰り際に、母は小さな瓶を差し出した。言葉は少なかった。 「持っていなさい。」…

  • 第2話

    春を待つ

    夜の店は、熱を帯びていた。低いベースの音、笑い声、グラスが触れ合う音。香月町の外れにあるフィリピンクラブは、京都の夜にしては賑やかだった。 老舗の料亭が軒を並べるこの花街に、唯一あるフィリピンクラブ「Bango ng B…

  • 第3話

    静かな昼

    京都の朝は、目覚ましより先にやってきた。音がしたわけではない。ただ、空気の層が一段、静かに入れ替わったような気配があった。 目を開けると、部屋はまだ薄暗い。障子越しの光は、朝とも昼ともつかない色をしている。冷たいが、刺さ…

  • 第4話

    構えが切り替わる夜

    京都に来て、数日が経った。 はっきりと言葉にはならないまま、同じ問いだけが、頭の奥に残っている。消えもしないし、形にもならない。ただ、ずっとそこにある。 自分は、ここに何をしに来たんだろう。 掌に収まる、小さな瓶。エメラ…

  • 第5話

    間の音

    ガビは、ひとりで蕎麦屋を訪れた。 昼より少し早い時間で、商店街の店先にはまだ準備の匂いが残っている。暖簾は短く、風に揺れていた。軒先の軸も、変わらずそこにある。 揺蕩うような墨跡は、前に見たときと変わらないはずなのに、今…

  • 第6話

    終わらせること

    橋掛かりの奥は、まだ薄暗かった。演目が終わったはずなのに、舞台そのものは終わっていないように感じられる。時と演者の行き来で磨かれた板の間は、近づくほどに光を吸い込み、踏み出す足を柔らかく受け止める。 板目の間に入り込んだ…

  • 第7話

    止まれない夜

    ロレーナは、部屋の小さな鏡の前に立っていた。 蛍光灯の光が顔をそのまま映す。隠しきれない凹凸と、少し荒れた頬。指先でファンデーションを重ね、薄く、もう一度重ねる。鏡から少し離れて全体を見るが、まだ足りない気がしてコンシー…

  • 第8話

    円の外

    朝の光は、夜よりも薄かった。障子越しの白が、部屋の中を静かに満たしている。 ガビは机の上に置いた小瓶を手に取る。いつもは、ただそこにあるだけのものだった。何かを期待して、じっくり見たことはない。 光の中で、液体がゆっくり…

  • 第9話

    凪ぐ

    高埜木魂は、座禅堂の外へ出ると、何も言わずに歩き出した。 廊下の板は冷えている。足音が、雪に吸われる。 襖を一枚、静かに開ける。香の間の空気が、わずかに濃い。 愛宕の香の間は、音を吸っていた。外では雪がやわらかく落ちてい…

  • 第10話

    よる

    レインボーラインの展望に立つと、若狭湾が広がっていた。 足元には三方五湖が横たわり、その向こうで湾が海へ開いている。さらに遠く、日本海が暗い色でうねっている。 沖では白波が立っていた。冬の日本海は荒れている。風が吹くたび…