BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第2話

春を待つ

夜の店は、熱を帯びていた。
低いベースの音、笑い声、グラスが触れ合う音。
香月町の外れにあるフィリピンクラブは、京都の夜にしては賑やかだった。

夜のBango ng Buwanの入口。桃色のネオンサインが木格子と石畳を照らしている。

老舗の料亭が軒を並べるこの花街に、
唯一あるフィリピンクラブ「Bango ng Buwan」。
開店から二十年が経った今、この町の中で確かな存在感を持っていた。

この店では、一日に二度、ライブがある。
そのときどきでバンドは変わる。
今週は、ガビが回してもらっていた。

京都に、しばらくいることになった。
東京の事務所が、仕事をつないでくれた。

暖かなステージ照明の下、ギターを構えてマイクの前に立つガビ。

ステージに出ると、
低いベースの音と、笑い声が混じっていた。

ガビは、本国ではヒップホップを歌っていた。
ここでは、誰もが知るポップスや懐メロを歌う。

演奏が終わると、
ガビはギターを下ろし、軽く頭を下げた。

拍手と口笛が起きる。
照明が、少し明るくなった。

ホールは再び、
笑い声と注文の声が重なり合った。

その中で、
一人の客が手を上げた。

店のソファで女性たちに囲まれ、声を上げて笑う恰幅のよい男性。手前にグラスや瓶が並ぶ。

恰幅のいい男だった。
三、四人のフィリピーナのキャストに囲まれ、
大きめの四角いテーブルに座っている。
グラスと笑い声が、ほどよく混じっていた。

「こっち来い。」

ガビは呼ばれ、テーブルに向かった。
キャストの一人が、自然な手つきで水割りを作ってくれる。

「彼、先週日本に来たんよ。」

キャストがそう言って、堂本を見た。
堂本は、少しだけ目を丸くした。

「ほう、そうか。」

それから、ガビの顔を見て笑った。

「どうや、日本は寒いやろ。」

ガビは一瞬、言葉を探したが、
「……はい」
としか声が出なかった。

それでも堂本は、満足そうにうなずいた。

「わしはな、こんな体やけど、冬が大の苦手でな。
春が待ちどおしいわ。」

雪を載せた瓦屋根から長いつららが連なり、古い木の外壁に光が差している。

春、という言葉が、
ガビの中で止まった。

フィリピンでは、季節は巡らない。
暑さと雨があるだけだ。
季節を待つ、という感覚がなかった。

「フィリピンはええよな。
いつも暖かくて。」

堂本は豪快に笑った。
キャストも一緒になって笑う。

ガビは、うまく返事ができなかった。

「春、……」

それだけが、口から出た。

堂本は気にした様子もなく、
グラスを空け、チップをテーブルに置いた。

自分は留まり、時が進む。
だから、自分は何も変わらない。
――そう思っていた。

けれど、
留まっている自分のまわりで、
景色が変わる。
気温が変わる。
光が変わる。
人の心も、変わっていく。

何かが変わるから、
時間をかけられる。
待つ、ということが、できる。

にぎやかな客席のソファで、周囲の話に耳を傾けるガビ。目の前の卓にグラスが並んでいる。

「堂本はんはな、
この辺の不動産の元締めみたいなお方や。
なんでも知ってはるんよ。」

キャストの一人が、そう囁いた。

「いや、そないなことないで。
長くやっとるだけや。」

堂本はそう言って、
思いの外やさしい目をした。

「せやけどな、ガビくん。
なんか困ったことあったら言うたらええ。
力になれるかもしれへんからな。」

しばらくの間、
取り留めのない話を、ぼんやりと聞いていたガビは、
軽く会釈をして、席を立った。

そのとき、堂本の視線が、
ガビのポケットに止まった。

「おまはん、その瓶……」

堂本は、言いかけて黙った。
何かを思い出すように、目を細める。

「昔な、
似たようなもんを見たことがある。」

ガビは、少しだけうつむいた。

「ママが、亡くなる時にこれをって。」

自分でも驚くほど、
小さな声だった。

ガビは、あの小瓶を持ち歩いていた。
理由はなかった。
なんとなく、そうした方がいいように思えたからだ。

ガビの手のひらに載った、コルク栓の小瓶。青緑の液体と紙ラベルが見える。

堂本は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。

「ほう……
ひょっとしてやが。」

すぐに首を振る。

「いや、なんもない。」

そして、軽い調子で言った。

「せやけどな。
もし、気が向いたらや。
愛宕の古い寺、訪ねてみ。」

霞んだ竹林を奥へ続く石段。左に石灯籠が立ち、木々の向こうに小さな建物の屋根が見える。

ガビは、聞くとはなしに聞いていた。

楽器や譜面を片付け、
ホールスタッフと軽く言葉を交わしたあと、
ガビは「Bango ng Buwan」を後にした。

フードをかぶり、灯りのともる京都の路地に立つガビ。奥の空に月の光がにじむ。

店の外に出ると、
冬の夜の空気が、刺すように冷たかった。
ガビはフードを被り直した。

下を向いて歩いていると、
黒い石畳に、ふわりと光が揺れた。
立ち止まり、空を見上げる。

雲の切れ間に、
薄い月が出ている。

春を、待つ。

そんな気持ちを、
自分が初めて持っていることに、
ガビは気づき始めていた。