BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第4話

構えが切り替わる夜

京都に来て、数日が経った。

はっきりと言葉にはならないまま、
同じ問いだけが、頭の奥に残っている。
消えもしないし、形にもならない。
ただ、ずっとそこにある。

自分は、ここに何をしに来たんだろう。

掌に収まる、小さな瓶。
エメラルドグリーンの液体。
ラベルのひらがな。きようと。
読み方は分かる。
意味は、まだ掴めない。

母のこと。
自分のこと。
京都に何かある気がして、ここまで来た。
けれど、答えに近づいている感じはなかった。

障子のある部屋に置かれた、ベージュの持ち手が付いた黒いバッグ。そばに青緑の小瓶と畳んだタオルがある。

答えは見えないまま、
代わりに、身体の感覚だけが、前に出てきていた。

*

京都に来てから、通うようになったジムがある。
来る前に、場所だけは調べていた。
しばらく滞在するつもりだったからだ。

ボクシングは、子どもの頃に始めた。
身体が弱く、鍛えるためだった。
父がいた頃の話だ。
細かいことは、もう覚えていない。
ただ、汗の匂いと、息の仕方だけが、身体に残っている。

古いボクシングジムの開いた入口。英字の看板の下から、赤いロープのリングが見える。

ジムのドアを押すと、空気が変わる。
ゴムと金属の匂い。
床の反発。
殴れば、殴った分だけ返ってくる。
踏み込めば、踏み込んだ分だけ残る。
動いた分が、そのまま残る。

ここには、取り繕う余地がない。

ガビは着替え、ストレッチを始めた。
肩、背中、股関節。
いつもの順番だ。

呼吸が整うにつれて、
頭の中の言葉が、静かに引いていく。

灰色のタンクトップを着たガビが、ジムで横に視線を向けている。背後にリングの赤いロープが見える。

そのとき、奥の方から声がかかった。

「おう、ガビ」

ジムのオーナー、神代だった。
ガビが振り返ると、
リングのある奥の方で、軽く手招きしている。

「今日はな、珍しい客が来てるぞ」

ジムの奥で片手を上げ、ガビを招く神代。手前には、灰色のタンクトップ姿のガビの後ろ姿。

ガビは返事をするともなく、
ストレッチを終え、奥へ歩いて行った。

ジムでボクシングの練習をするとき、
ガビはいつも、小瓶をタオルと一緒に持っていた。
なぜだかわからないが、
そうした方がいい気がしていた。

リング脇のスタンドテーブルに、
タオルと小瓶を置く。

そして、リングの方を見た。

そこに、男がいた。

見上げるような大男だった。
白人で、肩幅が広く、胴も厚い。
プロのボディビルダーのような肉体だが、
白と黒の、和服のようなものを身に着けている。

男は、何かの型をしていた。

動きは、驚くほど滑らかだった。
筋肉が動いているというより、
一つの流れが、形を変えながら続いているように見える。

力で押す気配はない。
それでも、場が自然に締まっていく。

型が、ふっと途切れた。

男の動きが止まった。

白い稽古着と黒い袴を着た大柄な男が、暗いジムのリング上に立っている。

小瓶に、
視線が一瞬、落ちたように見えた。

ガビには、はっきりとは分からなかった。

次の瞬間、男はガビを見た。

リングの上から、短く言う。
英語だった。

「Come up.
Let’s spar.」

男は静かな顔のまま、
軽く手招きした。

ガビは神代の方を見た。
神代は、少し笑って、
顎でリングの方を示した。

ガビは、リングに上がった。

スパーリングだ。

二人は練習用のグローブをつけ、
向き合った。

近くで見ると、
男はさらに巨大に見えた。

リング上で、黒いグローブを着けたガビと大柄な男が向き合う。男は白い稽古着と黒い袴、ガビは灰色のタンクトップ姿。

ガビは軽くステップを踏み、
間合いを測る。

その瞬間、分かった。

男は動かない。
それなのに、
こちらの位置だけが、先にずれていく。

ガビが踏み込む。

フック。
ストレート。

入らない。

当たる前に、
身体の向きが変えられる。

足を取られ、
肩が浮き、
視界がずれた。

立っていたはずの場所に、
もう自分はいない。

このままでは、持っていかれる。

黒いグローブを構え、手前にいる白い稽古着の相手を見上げるガビ。顔と上半身を低い位置から見ている。

その瞬間だった。

男の構えが、切り替わる一瞬だった。

ガビの身体が、考える前に動いた。

鋭いアッパー。

身長差で、顎には届かない。
それでも、男の構えの一角を崩した。

拳が、鳩尾に入った。

突き刺した、と思った瞬間、
拳が、底の見えない沼に沈んだ。

押し返されない。
受け止められた感じでもない。
ただ、力が消えていく。

同時に、踏み出した足元が掬われ、
体勢が崩れた。

「あっ…」

ガビは、小さく叫んだ。
しかし、確かに、
自分の拳は大男の鳩尾を捉えていた。

男は、一瞬、目を丸くした。

次の瞬間、
口元が、わずかに歪んだ。

にやり、とした。

白い稽古着の大柄な男を胸から上で捉えたカット。口元にかすかな笑みがあり、背後にリングのロープと天井の灯りが見える。

男が、低く呟いた。

「おまえか…
なるほど…」

ガビには、なんのことかわからなかった。

少し間を置いて、
男は、独り言のように続けた。

「海の、色か…」

一瞬、
時間が止まったように感じられた。

その沈黙を、
神代の声が破った。

「おいおい、本気じゃないよな」

男は何も答えない。
グローブを外し、
振り返らずにリングを降りる。

そのまま、ジムを出ていった。

ガビはリングの上に立ったまま、
少しだけ呼吸を整えた。
身体のどこかが、まだ遅れている。

ジムの木の台に置かれた、青緑の液体入りの小瓶と白いタオル。奥にリングと照明がぼけて見える。

タオルのところへ戻り、
小瓶を手に取る。

エメラルドグリーンの液体が、
細かく振動していた。

ガビは、それを黙って見ていた。

*

ジムを出ると、夜の道は冷たかった。
街灯の光に混じって、
月の光が舗道に落ちている。

ガビは歩き出した。
行き先を決めたわけではない。
けれど、呼吸は、さっきまでとは違っていた。

何が起きたのかは分からない。
けれど、
何も起きていないとも思えなかった。

月の光が、夜の道を照らしている。
ただ照らしているだけなのに、
足元だけが、少し確かになった気がした。

月と街灯に照らされた京都の夜道に、黒いフードをかぶったガビ。肩に大きなバッグを掛け、片手に青緑の小瓶を持っている。

ガビはフードを上げ、
京都の夜の中へ歩いた。