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構えが切り替わる夜
京都に来て、数日が経った。
はっきりと言葉にはならないまま、
同じ問いだけが、頭の奥に残っている。
消えもしないし、形にもならない。
ただ、ずっとそこにある。
自分は、ここに何をしに来たんだろう。
掌に収まる、小さな瓶。
エメラルドグリーンの液体。
ラベルのひらがな。きようと。
読み方は分かる。
意味は、まだ掴めない。
母のこと。
自分のこと。
京都に何かある気がして、ここまで来た。
けれど、答えに近づいている感じはなかった。

答えは見えないまま、
代わりに、身体の感覚だけが、前に出てきていた。
*
京都に来てから、通うようになったジムがある。
来る前に、場所だけは調べていた。
しばらく滞在するつもりだったからだ。
ボクシングは、子どもの頃に始めた。
身体が弱く、鍛えるためだった。
父がいた頃の話だ。
細かいことは、もう覚えていない。
ただ、汗の匂いと、息の仕方だけが、身体に残っている。

ジムのドアを押すと、空気が変わる。
ゴムと金属の匂い。
床の反発。
殴れば、殴った分だけ返ってくる。
踏み込めば、踏み込んだ分だけ残る。
動いた分が、そのまま残る。
ここには、取り繕う余地がない。
ガビは着替え、ストレッチを始めた。
肩、背中、股関節。
いつもの順番だ。
呼吸が整うにつれて、
頭の中の言葉が、静かに引いていく。

そのとき、奥の方から声がかかった。
「おう、ガビ」
ジムのオーナー、神代だった。
ガビが振り返ると、
リングのある奥の方で、軽く手招きしている。
「今日はな、珍しい客が来てるぞ」

ガビは返事をするともなく、
ストレッチを終え、奥へ歩いて行った。
ジムでボクシングの練習をするとき、
ガビはいつも、小瓶をタオルと一緒に持っていた。
なぜだかわからないが、
そうした方がいい気がしていた。
リング脇のスタンドテーブルに、
タオルと小瓶を置く。
そして、リングの方を見た。
そこに、男がいた。
見上げるような大男だった。
白人で、肩幅が広く、胴も厚い。
プロのボディビルダーのような肉体だが、
白と黒の、和服のようなものを身に着けている。
男は、何かの型をしていた。
動きは、驚くほど滑らかだった。
筋肉が動いているというより、
一つの流れが、形を変えながら続いているように見える。
力で押す気配はない。
それでも、場が自然に締まっていく。
型が、ふっと途切れた。
男の動きが止まった。

小瓶に、
視線が一瞬、落ちたように見えた。
ガビには、はっきりとは分からなかった。
次の瞬間、男はガビを見た。
リングの上から、短く言う。
英語だった。
「Come up.
Let’s spar.」
男は静かな顔のまま、
軽く手招きした。
ガビは神代の方を見た。
神代は、少し笑って、
顎でリングの方を示した。
ガビは、リングに上がった。
スパーリングだ。
二人は練習用のグローブをつけ、
向き合った。
近くで見ると、
男はさらに巨大に見えた。

ガビは軽くステップを踏み、
間合いを測る。
その瞬間、分かった。
男は動かない。
それなのに、
こちらの位置だけが、先にずれていく。
ガビが踏み込む。
フック。
ストレート。
入らない。
当たる前に、
身体の向きが変えられる。
足を取られ、
肩が浮き、
視界がずれた。
立っていたはずの場所に、
もう自分はいない。
このままでは、持っていかれる。

その瞬間だった。
男の構えが、切り替わる一瞬だった。
ガビの身体が、考える前に動いた。
鋭いアッパー。
身長差で、顎には届かない。
それでも、男の構えの一角を崩した。
拳が、鳩尾に入った。
突き刺した、と思った瞬間、
拳が、底の見えない沼に沈んだ。
押し返されない。
受け止められた感じでもない。
ただ、力が消えていく。
同時に、踏み出した足元が掬われ、
体勢が崩れた。
「あっ…」
ガビは、小さく叫んだ。
しかし、確かに、
自分の拳は大男の鳩尾を捉えていた。
男は、一瞬、目を丸くした。
次の瞬間、
口元が、わずかに歪んだ。
にやり、とした。

男が、低く呟いた。
「おまえか…
なるほど…」
ガビには、なんのことかわからなかった。
少し間を置いて、
男は、独り言のように続けた。
「海の、色か…」
一瞬、
時間が止まったように感じられた。
その沈黙を、
神代の声が破った。
「おいおい、本気じゃないよな」
男は何も答えない。
グローブを外し、
振り返らずにリングを降りる。
そのまま、ジムを出ていった。
ガビはリングの上に立ったまま、
少しだけ呼吸を整えた。
身体のどこかが、まだ遅れている。

タオルのところへ戻り、
小瓶を手に取る。
エメラルドグリーンの液体が、
細かく振動していた。
ガビは、それを黙って見ていた。
*
ジムを出ると、夜の道は冷たかった。
街灯の光に混じって、
月の光が舗道に落ちている。
ガビは歩き出した。
行き先を決めたわけではない。
けれど、呼吸は、さっきまでとは違っていた。
何が起きたのかは分からない。
けれど、
何も起きていないとも思えなかった。
月の光が、夜の道を照らしている。
ただ照らしているだけなのに、
足元だけが、少し確かになった気がした。

ガビはフードを上げ、
京都の夜の中へ歩いた。

