BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第5話

間の音

ガビは、ひとりで蕎麦屋を訪れた。

昼より少し早い時間で、商店街の店先にはまだ準備の匂いが残っている。暖簾は短く、風に揺れていた。軒先の軸も、変わらずそこにある。

蕎麦屋の入口脇に掛かった白い軸。細く曲がる墨の線に斜めの光が当たり、下に鉢植えが見える。

揺蕩うような墨跡は、前に見たときと変わらないはずなのに、今日は少しだけ違って見える。
紙の白がわずかに光を返し、線の気配だけが静かに残っている。

意味は分からない。ただ、その揺れに視線が引き寄せられる。どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。その思い出せなさだけが、静かに残った。

この店に戻ったのは、蕎麦のためではない。答えがあるとも思っていない。ただ、手繰れそうな糸が、ここにある気がしていた。

蕎麦屋の木のカウンターと背の低い椅子。棚には器が並び、格子窓から昼の光が入る。

暖簾をくぐると、主人は顔を上げ、何も聞かずに水を置いた。その変わらなさが、わずかに心を落ち着かせる。

ガビが軸に目をやるのを見て、主人が言う。

「気になるかい」

ガビは頷く。

「今夜、香月町の能舞台でやる。あの人の書や」

やがて丼が置かれる。

蕎麦と出汁だけ。器の中は静かだ。余計なものはない。

木のカウンターに置かれた、刻みねぎの載る蕎麦の丼から湯気が立つ。隣に湯呑み、手前に箸と箸置き。

湯気がゆっくり立ちのぼるのを見ながら、主人がぽつりと言う。

「蕎麦はな、二度目はない」

少し間を置いて、軒先の方へ顎を動かす。

「あれも、そうや」

ガビは丼の中を見る。
湯気の向こうで、出汁がわずかに揺れている。

箸を取り、静かに口へ運ぶ。

⸻

日が落ちるころ、ガビは香月町へ向かった。

老舗の料亭と茶屋が軒を並べる花街。夜になれば灯りが重なり、人の気配が濃くなる。その中で、フィリピンクラブ「Bango ng Buwan」だけが少し違う音を出している。低いベースと笑い声が、町の静けさに混ざりながらも、どこか異質に響く。

提灯がともる木造の店並みと、灯りを映す濡れた石畳。薄暗い空の下、道が奥へ続いている。

その同じ町に、能舞台があるという。

能舞台は、町の奥まった場所に建っていた。外観は質素だが、木の造りが整っている。入口をくぐると、床板の軋む音が小さく響いた。

舞台は四角く、屋根を持ち、背後には松が描かれている。
それ以外に目を引く装飾はない。
Bango ng Buwanでは夜ごとに光も色も重ねていくが、ここにはそれがない。
松と木の色だけが、静かに空間を支えている。

松を描いた鏡板と屋根を持つ、灯りに照らされた木の能舞台。舞台上には人も紙もなく、手前に小さな階段がある。

ガビは座布団に腰を下ろした。

ふと息を吸うと、木の匂いとは違う、かすかな香りが混じっていることに気づく。森の奥で雨に濡れた枝を折ったときのような匂いで、甘くも強くもない。ただ、肺の奥まで静かに届く。

*

照明が落ちる。

最初に、細い笛の音が立ち上がった。高く、しかし湿り気を含んでいる。続いて低い管の音が重なり、鼓が間を打つ。

黒い着物の奏者が座って横笛を吹いている。背後の両側にも、楽器を構えた奏者がいる。

音は揃わない。

揃えようとしていない。

それぞれが、自分の時間で鳴っている。

ガビは無意識に足で拍を取ろうとした。すぐに止まる。心臓の鼓動と舞台の音が合わない。合わせようとするほど、ずれていく。

音は安定しない。耳が外れたと判断しそうな高さが重なり、消える。新手のパーカッションのようだと思うが、乗れない。乗れないのに、嫌ではない。ただ、自分の時間が追いついていない。

思わず客席を見渡す。誰も体を揺らしていない。足で拍を取る人もいない。ただ静かに舞台を見ている。戸惑っているのは自分だけなのかと一瞬思うが、誰も困っているようには見えない。その静けさが、逆に落ち着きを生んだ。

黒いフードと上着を着たガビが、暗い客席から斜め前へ視線を向けている。横顔に柔らかな光が当たる。

やがて、白い紙が舞台の中央に置かれる。

書家は年配の女性だった。太い筆を、まるで軽い枝のように持っている。

動かない。

鼓が鳴る。

その音と同時に、筆が落ちた。墨が紙に置かれる。

次の弦の音に合わせ、筆が横へ払われる。鋭い線が走り、途中で止まる。止まった線が、音の余韻を受けているように見える。

再び鼓。

今度はわずかに遅れて筆が動く。ずれているのに、乱れない。

音が強まると、墨も勢いを増す。飛沫が白を弾く。

白髪を結い上げた黒い衣の書家が、大きな白い紙へ筆を走らせる後ろ姿。紙には墨の線と飛沫が広がっている。

そして、音が消える。

舞台に、間が落ちる。

筆も止まる。

完全に止まる。

誰も動かない。

止まった筆先から、墨がじわりと滲み始める。ほんのわずかな広がりなのに、さきほどまでの動きよりも強く感じられた。

白い紙に触れる筆先のまわりへ、丸く墨が滲んでいる。紙の繊維と広い余白が近くに見える。

ガビは、息を止めていたことに気づく。遅れて肺が動き、自分の中の拍がほどけていく。

跳ねない。
前に進まない。
高揚もしない。

それでも、確かにどこかへ運ばれている。

終わってもしばらく、客席は静まり返っていた。舞台の上には、白い紙と墨の線。それだけなのに、さきほどまでとは同じ空間ではない。

客席がゆるやかに解け始めたころ、後ろから声がした。

「来てたんだね」

振り向くと、蕎麦屋の主人が立っている。

「どうだった」

ガビはうまく答えられず、ただ頷いた。

主人は舞台の方へ目をやり、「先生に、あんたのこと言っといた」と言う。
少し間を置いて、「聞きたい顔してたからな」と続け、顎で奥を示した。

「本来は、あそこは演者の道やがな」

小さくそう付け足した。

墨の線と飛沫が残る白い紙を正面に見るガビの後ろ姿。木の舞台が暖かな灯りに照らされ、周囲に人影がある。

さきほどの笛の音が、まだ耳の奥に残っている。
その音を壊さないように、ガビは静かに歩き出した。

橋掛かりの奥は、まだ薄暗い。