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間の音
ガビは、ひとりで蕎麦屋を訪れた。
昼より少し早い時間で、商店街の店先にはまだ準備の匂いが残っている。暖簾は短く、風に揺れていた。軒先の軸も、変わらずそこにある。

揺蕩うような墨跡は、前に見たときと変わらないはずなのに、今日は少しだけ違って見える。
紙の白がわずかに光を返し、線の気配だけが静かに残っている。
意味は分からない。ただ、その揺れに視線が引き寄せられる。どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。その思い出せなさだけが、静かに残った。
この店に戻ったのは、蕎麦のためではない。答えがあるとも思っていない。ただ、手繰れそうな糸が、ここにある気がしていた。

暖簾をくぐると、主人は顔を上げ、何も聞かずに水を置いた。その変わらなさが、わずかに心を落ち着かせる。
ガビが軸に目をやるのを見て、主人が言う。
「気になるかい」
ガビは頷く。
「今夜、香月町の能舞台でやる。あの人の書や」
やがて丼が置かれる。
蕎麦と出汁だけ。器の中は静かだ。余計なものはない。

湯気がゆっくり立ちのぼるのを見ながら、主人がぽつりと言う。
「蕎麦はな、二度目はない」
少し間を置いて、軒先の方へ顎を動かす。
「あれも、そうや」
ガビは丼の中を見る。
湯気の向こうで、出汁がわずかに揺れている。
箸を取り、静かに口へ運ぶ。
⸻
日が落ちるころ、ガビは香月町へ向かった。
老舗の料亭と茶屋が軒を並べる花街。夜になれば灯りが重なり、人の気配が濃くなる。その中で、フィリピンクラブ「Bango ng Buwan」だけが少し違う音を出している。低いベースと笑い声が、町の静けさに混ざりながらも、どこか異質に響く。

その同じ町に、能舞台があるという。
能舞台は、町の奥まった場所に建っていた。外観は質素だが、木の造りが整っている。入口をくぐると、床板の軋む音が小さく響いた。
舞台は四角く、屋根を持ち、背後には松が描かれている。
それ以外に目を引く装飾はない。
Bango ng Buwanでは夜ごとに光も色も重ねていくが、ここにはそれがない。
松と木の色だけが、静かに空間を支えている。

ガビは座布団に腰を下ろした。
ふと息を吸うと、木の匂いとは違う、かすかな香りが混じっていることに気づく。森の奥で雨に濡れた枝を折ったときのような匂いで、甘くも強くもない。ただ、肺の奥まで静かに届く。
*
照明が落ちる。
最初に、細い笛の音が立ち上がった。高く、しかし湿り気を含んでいる。続いて低い管の音が重なり、鼓が間を打つ。

音は揃わない。
揃えようとしていない。
それぞれが、自分の時間で鳴っている。
ガビは無意識に足で拍を取ろうとした。すぐに止まる。心臓の鼓動と舞台の音が合わない。合わせようとするほど、ずれていく。
音は安定しない。耳が外れたと判断しそうな高さが重なり、消える。新手のパーカッションのようだと思うが、乗れない。乗れないのに、嫌ではない。ただ、自分の時間が追いついていない。
思わず客席を見渡す。誰も体を揺らしていない。足で拍を取る人もいない。ただ静かに舞台を見ている。戸惑っているのは自分だけなのかと一瞬思うが、誰も困っているようには見えない。その静けさが、逆に落ち着きを生んだ。

やがて、白い紙が舞台の中央に置かれる。
書家は年配の女性だった。太い筆を、まるで軽い枝のように持っている。
動かない。
鼓が鳴る。
その音と同時に、筆が落ちた。墨が紙に置かれる。
次の弦の音に合わせ、筆が横へ払われる。鋭い線が走り、途中で止まる。止まった線が、音の余韻を受けているように見える。
再び鼓。
今度はわずかに遅れて筆が動く。ずれているのに、乱れない。
音が強まると、墨も勢いを増す。飛沫が白を弾く。

そして、音が消える。
舞台に、間が落ちる。
筆も止まる。
完全に止まる。
誰も動かない。
止まった筆先から、墨がじわりと滲み始める。ほんのわずかな広がりなのに、さきほどまでの動きよりも強く感じられた。

ガビは、息を止めていたことに気づく。遅れて肺が動き、自分の中の拍がほどけていく。
跳ねない。
前に進まない。
高揚もしない。
それでも、確かにどこかへ運ばれている。
終わってもしばらく、客席は静まり返っていた。舞台の上には、白い紙と墨の線。それだけなのに、さきほどまでとは同じ空間ではない。
客席がゆるやかに解け始めたころ、後ろから声がした。
「来てたんだね」
振り向くと、蕎麦屋の主人が立っている。
「どうだった」
ガビはうまく答えられず、ただ頷いた。
主人は舞台の方へ目をやり、「先生に、あんたのこと言っといた」と言う。
少し間を置いて、「聞きたい顔してたからな」と続け、顎で奥を示した。
「本来は、あそこは演者の道やがな」
小さくそう付け足した。

さきほどの笛の音が、まだ耳の奥に残っている。
その音を壊さないように、ガビは静かに歩き出した。
橋掛かりの奥は、まだ薄暗い。

