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凪ぐ
高埜木魂は、座禅堂の外へ出ると、何も言わずに歩き出した。
廊下の板は冷えている。足音が、雪に吸われる。
襖を一枚、静かに開ける。香の間の空気が、わずかに濃い。
愛宕の香の間は、音を吸っていた。外では雪がやわらかく落ちているはずなのに、その気配さえ遠い。白檀の香りが畳と古木に溶け込み、格子越しの光が床に細い帯をつくる。

高埜木魂は中央に立つ。構えはない。ただ、揺れがない。
ガビは無意識に小瓶を握っている。指先に伝わる震えが、液体のものか、自分のものか分からない。

高埜木魂の視線が、そこに落ちる。
「海の色やな」
ガビは答えない。
「深うなった」
沈黙が落ちる。
畳の目が、やけに細かく見える。

「聞いてきたな」
あの曲がり角で、不意に声をかけられたときの空気が、急に近づく。
あのとき、高埜木魂は言った。音はな、聴こえへん音を聞くこともある、と。
あのときは意味が分からなかった。音楽の話だと思った。
けれど、京都で触れてきたものは、音よりも先に身体へ入ってきた。
能の舞台で、拍が身体から外れた夜。蕎麦の湯気の向こうで、言葉が要らなくなった昼。白い紙の上で、何も描かれていないはずの場所が、いちばん濃く見えた瞬間。春を待つという言葉の奥に、時間が息づいていると知った夜。
どれも、声ではなかった。けれど、身体は確かにそれを聞いていた。

高埜木魂は、小瓶から目を上げる。
「さて、ガブリエルはん。
おまえさんが持ってはる、その海の色。
それは、止水や」
胸に下げた赤の止水を、そっと持ち上げる。月光が差し込み、赤と青緑が並ぶ。

「止水はな、化粧師の水や。
化粧師は、命を整える者や」
高埜木魂は、ガビを見る。
「おまえさんのおかんも、化粧師やった」
ガビは目を見開く。
「流れは、絶えとらん」
その言葉で、遠い夜が立ち上がる。
夜だった。部屋の灯りは一つだけ。窓の外は黒く、幼いガビはその暗さが少し怖かった。
知らない大人が向かいに座り、肩を震わせている。母はすぐには言葉を返さなかった。ただ、その人の顔を見ていた。
長い。子どものガビには、やけに長く感じられた。
やがて母は、静かに言った。
「もう、大丈夫」
それだけだった。
部屋の暗さは変わらない。けれど、泣いていた人の呼吸が、少し整う。
しばらくして、その人は帰っていった。
戸が閉まる音がして、夜が戻る。
そのあとで、ガビは聞いた。
「なんで、あの人、泣いてたの?」
母は目の高さを合わせる。

「ううん。もう大丈夫。
あの人も、ガビ、あなたも」
そう言って、母はガビを抱きしめた。
暗い部屋の中で、母の匂いだけがはっきりしていた。安らかだった。
その匂いが、いまの香りと重なる。
高埜木魂は、ガビの小瓶へと視線を戻す。
「おまえさんの海も、ええ塩梅になってきとる」
高埜木魂は、格子の外へ目を上げた。庭の奥で、雪が音もなく積もっている。

「今夜は、たまたま満月や」
高埜木魂の顔が、わずかにゆるんだように見えた。
「そこに座りぃ。
いくで……」
ガビは言われるまま膝を折る。畳の冷えが、膝から身体へ伝わる。
高埜木魂もゆっくりと座した。畳がわずかに軋む。
香の間の空気が張る。
高埜木魂は、止水の瓶を包み込むように、その手をガビの手へ重ねた。
手は軽い。それでも、触れている感覚がはっきり残る。
ガビは目を閉じる。息を吸おうとして、止まる。

胸の奥で鳴っていた拍が、急に大きく感じられる。
次の瞬間、眉間へひと息が落ちた。
音が遠のく。
胸の奥の拍が遅れ、止水の揺れが、それに応える。
雪模様の雲が、ゆっくりと切れる。月光が格子を抜け、床を渡り、やがてガビの額と止水を照らす。
高埜木魂は、止水を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「よし」
白檀の香りが、ふっと近づく。

ガビはそっと目を開ける。
*
高埜木魂は、格子の向こうを見た。
「海はな、ひとりでは動かん」
「風が波を起こす。陽が流れをつくる。月が潮を引く」
月光が庭を照らしている。
「引いたら満ちる。満ちたら引く。荒れたら凪ぐ。凪いだらまた動く」
「大昔から、変わらん営みや」

少し視線を落とす。
「その巡りがあるから、命は続く」
止水の揺れが、月の帯を静かに受ける。
「海はな、動かされとるように見える」
「せやけど、支えられとるもんが、支えとる」
「動かされとるもんが、動きを生む」
「光らされとるもんが、光らせとる」
月光が海の色を拾う。

「化粧師も同じや。整えて、返す」
高埜木魂は小瓶を見る。
「ガブリエルはん」
ガビが顔を上げる。
「海の色、よう磨きぃや」
月光が止水を照らしている。
ガビは小瓶を握り直す。その手に、ほんのわずか力が入る。胸の奥で、小さな火のようなものが揺れた。ひとりで立っている、という感じではなかった。

