BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第9話

凪ぐ

高埜木魂は、座禅堂の外へ出ると、何も言わずに歩き出した。

廊下の板は冷えている。足音が、雪に吸われる。

襖を一枚、静かに開ける。香の間の空気が、わずかに濃い。

愛宕の香の間は、音を吸っていた。外では雪がやわらかく落ちているはずなのに、その気配さえ遠い。白檀の香りが畳と古木に溶け込み、格子越しの光が床に細い帯をつくる。

正面の格子窓から光が入る、人気のない畳の部屋。暗い木の柱と梁、左右の襖が畳を囲んでいる。

高埜木魂は中央に立つ。構えはない。ただ、揺れがない。

ガビは無意識に小瓶を握っている。指先に伝わる震えが、液体のものか、自分のものか分からない。

畳の部屋に立つガビ。黒いフード付きの服と上着を着て、片手にコルク栓の小瓶を持ち、斜め前へ顔を向けている。

高埜木魂の視線が、そこに落ちる。

「海の色やな」

ガビは答えない。

「深うなった」

沈黙が落ちる。

畳の目が、やけに細かく見える。

光と影の落ちる畳の接写。奥に丸い黒い香炉と、細い二本の道具が置かれている。

「聞いてきたな」

あの曲がり角で、不意に声をかけられたときの空気が、急に近づく。

あのとき、高埜木魂は言った。音はな、聴こえへん音を聞くこともある、と。

あのときは意味が分からなかった。音楽の話だと思った。

けれど、京都で触れてきたものは、音よりも先に身体へ入ってきた。

能の舞台で、拍が身体から外れた夜。蕎麦の湯気の向こうで、言葉が要らなくなった昼。白い紙の上で、何も描かれていないはずの場所が、いちばん濃く見えた瞬間。春を待つという言葉の奥に、時間が息づいていると知った夜。

どれも、声ではなかった。けれど、身体は確かにそれを聞いていた。

雪の軒とつらら、笛を吹く男性、蕎麦の器、墨の一点が置かれた白紙と筆を重ねた回想の画。

高埜木魂は、小瓶から目を上げる。

「さて、ガブリエルはん。
おまえさんが持ってはる、その海の色。
それは、止水や」

胸に下げた赤の止水を、そっと持ち上げる。月光が差し込み、赤と青緑が並ぶ。

格子窓のある部屋で、高埜木魂が鎖を持ち上げ、赤い液体の小瓶をガビへ示している。向かいのガビは、青緑色の液体が入ったコルク栓の小瓶を手に持つ。

「止水はな、化粧師の水や。
化粧師は、命を整える者や」

高埜木魂は、ガビを見る。

「おまえさんのおかんも、化粧師やった」

ガビは目を見開く。

「流れは、絶えとらん」

その言葉で、遠い夜が立ち上がる。

夜だった。部屋の灯りは一つだけ。窓の外は黒く、幼いガビはその暗さが少し怖かった。

知らない大人が向かいに座り、肩を震わせている。母はすぐには言葉を返さなかった。ただ、その人の顔を見ていた。

長い。子どものガビには、やけに長く感じられた。

やがて母は、静かに言った。

「もう、大丈夫」

それだけだった。

部屋の暗さは変わらない。けれど、泣いていた人の呼吸が、少し整う。

しばらくして、その人は帰っていった。

戸が閉まる音がして、夜が戻る。

そのあとで、ガビは聞いた。

「なんで、あの人、泣いてたの?」

母は目の高さを合わせる。

暖かな灯りの室内で、淡い柄の上着を着た母が、手前の幼いガビへ顔を寄せて目を向けている。

「ううん。もう大丈夫。
あの人も、ガビ、あなたも」

そう言って、母はガビを抱きしめた。

暗い部屋の中で、母の匂いだけがはっきりしていた。安らかだった。

その匂いが、いまの香りと重なる。

高埜木魂は、ガビの小瓶へと視線を戻す。

「おまえさんの海も、ええ塩梅になってきとる」

高埜木魂は、格子の外へ目を上げた。庭の奥で、雪が音もなく積もっている。

格子窓のそばに立ち、窓の外へ視線を向ける高埜木魂。長い銀髪、黒い外套、胸元の赤い小瓶と暗い瞳が見える。

「今夜は、たまたま満月や」

高埜木魂の顔が、わずかにゆるんだように見えた。

「そこに座りぃ。
いくで……」

ガビは言われるまま膝を折る。畳の冷えが、膝から身体へ伝わる。

高埜木魂もゆっくりと座した。畳がわずかに軋む。

香の間の空気が張る。

高埜木魂は、止水の瓶を包み込むように、その手をガビの手へ重ねた。

手は軽い。それでも、触れている感覚がはっきり残る。

ガビは目を閉じる。息を吸おうとして、止まる。

畳に向かい合って座る二人。手前の高埜木魂が、小瓶を持つガビの手に手を重ねている。ガビは目を閉じ、右側の香炉から細い煙がのぼる。

胸の奥で鳴っていた拍が、急に大きく感じられる。

次の瞬間、眉間へひと息が落ちた。

音が遠のく。

胸の奥の拍が遅れ、止水の揺れが、それに応える。

雪模様の雲が、ゆっくりと切れる。月光が格子を抜け、床を渡り、やがてガビの額と止水を照らす。

高埜木魂は、止水を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。

「よし」

白檀の香りが、ふっと近づく。

暗い畳の部屋で、丸い黒い香炉から細い煙がのぼり、横へ流れている。格子窓の光が畳に筋を落とす。

ガビはそっと目を開ける。

*

高埜木魂は、格子の向こうを見た。

「海はな、ひとりでは動かん」

「風が波を起こす。陽が流れをつくる。月が潮を引く」

月光が庭を照らしている。

「引いたら満ちる。満ちたら引く。荒れたら凪ぐ。凪いだらまた動く」

「大昔から、変わらん営みや」

木の格子越しに見える雪の庭。灯籠と木々に雪が積もり、格子の影が室内の畳に長く伸びている。

少し視線を落とす。

「その巡りがあるから、命は続く」

止水の揺れが、月の帯を静かに受ける。

「海はな、動かされとるように見える」

「せやけど、支えられとるもんが、支えとる」

「動かされとるもんが、動きを生む」

「光らされとるもんが、光らせとる」

月光が海の色を拾う。

暗い海の上に満月が浮かび、光が水面に一本の道のように映っている。手前の波は青緑色に透けて見える。

「化粧師も同じや。整えて、返す」

高埜木魂は小瓶を見る。

「ガブリエルはん」

ガビが顔を上げる。

「海の色、よう磨きぃや」

月光が止水を照らしている。

ガビは小瓶を握り直す。その手に、ほんのわずか力が入る。胸の奥で、小さな火のようなものが揺れた。ひとりで立っている、という感じではなかった。