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レインボーラインの展望に立つと、若狭湾が広がっていた。
足元には三方五湖が横たわり、その向こうで湾が海へ開いている。さらに遠く、日本海が暗い色でうねっている。
沖では白波が立っていた。冬の日本海は荒れている。
風が吹くたび、海面の白が広がる。波は重く、近づくものを押し返すように動いている。
低い海鳴りが風に混じって届く。
冬の潮の匂いが、展望の上まで押し上げられてくる。
若狭湾の奥に立っていても、海の荒れは隠しきれない。
ガビはしばらく、その海を見ていた。
世界を見るために。
「海を見ろ」という高埜木魂の言葉を、そう受け取っていたからだ。

だが、目の前の海は違っていた。
遠くで砕ける波は重く、近づく者を試しているようだった。世界へ続く道というより、そこへ向かう覚悟を問い返してくる場所に見える。
風がもう一度強く吹く。
白波が広がる。
ガビは、思わず足に力を入れていた。
ここから先へ出るには、まだ何かが足りない。
昨夜のことだ……。
*
ガビは、宿でスマートフォンの地図を開いていた。

「海の色の止水なら、海に聞いてみなはれ」
儀式の日、高埜木魂の言葉に世界を見た。
フィリピン、日本、そして世界。
そう思うと、今すぐにでも海を見たいという衝動に駆られた。

マップに目を落とす。1番早くいけそうな海を探す。
若狭があった。
日本海の北の海だ。
地図を拡大すると、若狭の土地が海を抱くように湾をつくり、そのそばにいくつかの湖がまとまっている。三方五湖と書いてあった。
湖岸の入り組んだ湖が、寄り添うようにまとまっている。
その形は、ガビには、母国のフィリピンの姿に見えた。
*
だが、目の前の海は、思っていた海ではなかった。
遠くで砕ける波は重く、岸へ寄ろうとするものを押し返している。
世界へ続く入口というより、近づく者の覚悟を試しているように見えた。

ガビは視線を外さない。
風がもう一度強く吹く。
白波が広がる。
その海を見ているうちに、ガビははっきりと悟る。
まだ、早い。
世界へ出ることを考えていた。
だが、この海は、それを簡単には許さない。
いまの自分では、まだ足りない。
ガビはゆっくりと視線を落とした。
目の前には三方五湖がある。
海とはうってかわって、湖面は凪いでいた。
だが止まっているわけではない。細かなさざなみが広がり、風に応えて動いている。
風は見えない。
だが、水はそれに応える。

その揺れを見ていると、デイビッドの声が、不意に蘇った。
「ガビ。
合気の“気”は、Qiだ」
あのときは、ただ音として聞いていた。けれど今、見えない風に応えて動く水を見ていると、その言葉が静かに胸の奥へ落ちてくる。
――京都で触れた、あの「間」が、静かに重なる。
ガビはポケットから止水のボトルを取り出す。
これまで開けたことはなかった。
いつも持ち歩いてはいたが、触れるだけで十分だと思っていたからだ。
でも、今は違う。
キャップを外す。
海の色の液体が、ボトルの中で静かに揺れる。
ガビはそれを一滴、手の甲に落とした。
冷たい。
だが、その冷たさはすぐに肌へ馴染む。
ガビは指先でそれを広げ、頬に触れてみる。冬の空気で乾いていた肌が、わずかにほどける。

「止水はな、化粧師の水や。
化粧師は、命を整える者や」
高埜木魂の言葉が、少し腑に落ちた。
*
ガビはもう一度、湖を見る。
さざなみが風に応えて広がっている。
そのまま風に当たっていると、頬の冷たさが残る。
ガビは無意識に腕を抱き、寒さをやり過ごそうとした。
袖がずれる。
ガビは、そのまま袖をもう少しだけ捲り上げた。
腕の内側に刻まれたタトゥーが、冬の光にさらされる。
よ
る
崋山が書いた文字だった。

ガビはその文字を、そのまま腕に刻んでいる。深く考えたわけではなかった。ただ、母の記憶をどこかに残しておきたかった。
母はゆらもじを書いていた。
墨の線が、言葉になる前の揺らぎのように動くのを、子どもの頃よく見ていた。
崋山が書いた「よる」は、その記憶の中と同じ線だった。
だから腕に残した。
そして、今、湖面に映る月を見ている。

フィリピンでは月を見上げたことなんてなかった。支えられているなどと考えたこともなかった。
母が亡くなってからはなおさらだ。放っておかれたと思っていたし、それが普通だと思っていた。
だけど、湖面に映る月は、自分で光っているわけではない。光を受け、それを夜へ返している。
湖面も同じだった。
空の光を受け、水面で揺らし、また夜へ戻している。
光はそこで終わらない。
受け取られ、形を変え、またどこかへ届く。
誰かが光を受け、
誰かがそれを返し、
また別の誰かがそれに照らされる。
その連なりの中で、光の世界を作っている。
ガビ自身、その連鎖の中にいることがようやくわかった。
でも、夜がなければ光は見えない。
夜は、光が現れる場所だった。
ガビはもう一度、自分の腕を見る。
よる。
今になって思う。
崋山は、最初から分かっていたのかもしれない。
*
湖面に映る月が、静かに揺れる。
「持っていなさい」
病床の母が託してくれた止水。

ガビはボトルを見つめた。
戻る。
母国へ。

ガビはボトルを見る。
「きようと」と書かれたラベルが、月の光を受けている。
ペンはない。
それでも残しておきたい。
ガビは爪を立てる。
紙がかすかに鳴る。
き
す
い

ガビは指先でその文字をなぞる。
その最初の音が、デイビッドの言ったQiと静かに重なった。

湖面に映る月が、静かに揺れている。
夜は、続いている。

