BEAUTY SAGA
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KTS1 / 第10話

よる

レインボーラインの展望に立つと、若狭湾が広がっていた。

足元には三方五湖が横たわり、その向こうで湾が海へ開いている。さらに遠く、日本海が暗い色でうねっている。

沖では白波が立っていた。冬の日本海は荒れている。
風が吹くたび、海面の白が広がる。波は重く、近づくものを押し返すように動いている。

低い海鳴りが風に混じって届く。
冬の潮の匂いが、展望の上まで押し上げられてくる。
若狭湾の奥に立っていても、海の荒れは隠しきれない。

ガビはしばらく、その海を見ていた。
世界を見るために。
「海を見ろ」という高埜木魂の言葉を、そう受け取っていたからだ。

黒いフードと厚手の上着を着たガビの顔。曇り空と遠くの水面を背に、横へ視線を向けている。

だが、目の前の海は違っていた。
遠くで砕ける波は重く、近づく者を試しているようだった。世界へ続く道というより、そこへ向かう覚悟を問い返してくる場所に見える。

風がもう一度強く吹く。
白波が広がる。

ガビは、思わず足に力を入れていた。
ここから先へ出るには、まだ何かが足りない。

昨夜のことだ……。

*

ガビは、宿でスマートフォンの地図を開いていた。

暖かな灯りの和室で、地図の表示されたスマートフォンを手に持っている。奥には障子と畳に敷かれた布団が見える。

「海の色の止水なら、海に聞いてみなはれ」

儀式の日、高埜木魂の言葉に世界を見た。

フィリピン、日本、そして世界。
そう思うと、今すぐにでも海を見たいという衝動に駆られた。

暗い空に丸い月が浮かび、青緑色の海面に細い光の道が映っている。手前の水は透けて見える。

マップに目を落とす。1番早くいけそうな海を探す。
若狭があった。
日本海の北の海だ。

地図を拡大すると、若狭の土地が海を抱くように湾をつくり、そのそばにいくつかの湖がまとまっている。三方五湖と書いてあった。

湖岸の入り組んだ湖が、寄り添うようにまとまっている。
その形は、ガビには、母国のフィリピンの姿に見えた。

*

だが、目の前の海は、思っていた海ではなかった。

遠くで砕ける波は重く、岸へ寄ろうとするものを押し返している。
世界へ続く入口というより、近づく者の覚悟を試しているように見えた。

暗い岩に大きな白い波が砕け、飛沫が上がっている。灰色の海の奥にも幾重もの波が続く。

ガビは視線を外さない。
風がもう一度強く吹く。
白波が広がる。

その海を見ているうちに、ガビははっきりと悟る。

まだ、早い。

世界へ出ることを考えていた。
だが、この海は、それを簡単には許さない。

いまの自分では、まだ足りない。

ガビはゆっくりと視線を落とした。

目の前には三方五湖がある。

海とはうってかわって、湖面は凪いでいた。
だが止まっているわけではない。細かなさざなみが広がり、風に応えて動いている。

風は見えない。
だが、水はそれに応える。

髪を細く編み、黒い上着を着たガビの後ろ姿。高い場所から、山々に囲まれた湖とその向こうの湾を見下ろしている。

その揺れを見ていると、デイビッドの声が、不意に蘇った。

「ガビ。
合気の“気”は、Qiだ」

あのときは、ただ音として聞いていた。けれど今、見えない風に応えて動く水を見ていると、その言葉が静かに胸の奥へ落ちてくる。

――京都で触れた、あの「間」が、静かに重なる。

ガビはポケットから止水のボトルを取り出す。

これまで開けたことはなかった。
いつも持ち歩いてはいたが、触れるだけで十分だと思っていたからだ。

でも、今は違う。

キャップを外す。
海の色の液体が、ボトルの中で静かに揺れる。

ガビはそれを一滴、手の甲に落とした。

冷たい。
だが、その冷たさはすぐに肌へ馴染む。

ガビは指先でそれを広げ、頬に触れてみる。冬の空気で乾いていた肌が、わずかにほどける。

湖を見下ろす高台に立つガビが、片手に小瓶を持ち、もう片方の手で頬に触れている。黒い上着と編んだ髪が見える。

「止水はな、化粧師の水や。
化粧師は、命を整える者や」

高埜木魂の言葉が、少し腑に落ちた。

*

ガビはもう一度、湖を見る。
さざなみが風に応えて広がっている。

そのまま風に当たっていると、頬の冷たさが残る。
ガビは無意識に腕を抱き、寒さをやり過ごそうとした。

袖がずれる。

ガビは、そのまま袖をもう少しだけ捲り上げた。

腕の内側に刻まれたタトゥーが、冬の光にさらされる。

よ
る

崋山が書いた文字だった。

ガビが袖を捲り、伸ばした腕の内側にある細い黒い線のタトゥーを見下ろしている。背後には湖と低い山々が広がる。

ガビはその文字を、そのまま腕に刻んでいる。深く考えたわけではなかった。ただ、母の記憶をどこかに残しておきたかった。

母はゆらもじを書いていた。
墨の線が、言葉になる前の揺らぎのように動くのを、子どもの頃よく見ていた。

崋山が書いた「よる」は、その記憶の中と同じ線だった。

だから腕に残した。

そして、今、湖面に映る月を見ている。

暗い湖面に月の光が細長く映り、小さな波で揺れている。手前の岸辺には草と石が見える。

フィリピンでは月を見上げたことなんてなかった。支えられているなどと考えたこともなかった。
母が亡くなってからはなおさらだ。放っておかれたと思っていたし、それが普通だと思っていた。

だけど、湖面に映る月は、自分で光っているわけではない。光を受け、それを夜へ返している。

湖面も同じだった。
空の光を受け、水面で揺らし、また夜へ戻している。

光はそこで終わらない。
受け取られ、形を変え、またどこかへ届く。

誰かが光を受け、
誰かがそれを返し、
また別の誰かがそれに照らされる。
その連なりの中で、光の世界を作っている。

ガビ自身、その連鎖の中にいることがようやくわかった。

でも、夜がなければ光は見えない。
夜は、光が現れる場所だった。

ガビはもう一度、自分の腕を見る。

よる。

今になって思う。
崋山は、最初から分かっていたのかもしれない。

*

湖面に映る月が、静かに揺れる。

「持っていなさい」

病床の母が託してくれた止水。

暖かな斜光が大きな窓から差し込む病室。人のいないベッドと白い寝具、薄いカーテン、窓際の小さな台が見える。

ガビはボトルを見つめた。

戻る。
母国へ。

夜の水辺で、ガビが両手に持ったコルク栓の小瓶を見つめている。紙ラベルと青緑色の液体が見え、奥の水面に月の光が映る。

ガビはボトルを見る。
「きようと」と書かれたラベルが、月の光を受けている。

ペンはない。
それでも残しておきたい。

ガビは爪を立てる。
紙がかすかに鳴る。

き
す
い

両手で支えた青緑色の小瓶の接写。紙ラベルには黒い文字と、その下に白っぽい刻み跡が見え、背後の暗い水面に光が映っている。

ガビは指先でその文字をなぞる。

その最初の音が、デイビッドの言ったQiと静かに重なった。

黒い上着のガビが、夜の湖に向かって立つ後ろ姿。手前に草の岸辺があり、水面には細長い月の光が映っている。

湖面に映る月が、静かに揺れている。

夜は、続いている。